2016年9月12日月曜日

3つの「選択ミス」が日本を戦争へと走らせた (加藤陽子東大教授)

 「東洋経済」が、『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』 の著者で、歴史学者の加藤陽子・東京大学文学部教授にインタビューをしました。
 加藤氏は、1932年のリットン報告書(概要は末尾を参照)への対応、日独伊三国軍事同盟、それに日米交渉、その「3つの選択ミス」が日本を戦争に走らせることになったとして、
 『最悪の失敗例を詳細に知っておくことで、その失敗例が歴史上の現実になったこと自体、必ずしも蓋然性が高くて起こったのではなかったことを理解する。その連関をつぶさに知れば冷静に物事を見る目を養うことができる
と述べています
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3つの「選択ミス」が日本を戦争へと走らせた 
一番の大きな曲がり角はリットン報告書 
塚田 紀史 東洋経済オンライン 2016年9月11日
 日本は世界から「どちらを選ぶか」と三度、「戦争まで」の10年の間に問われた。それでもよりよき道を選べなかったのはなぜか。『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』 著者の加藤陽子・東京大学文学部教授に話を聞いた。
 
──1941年の宣戦布告まで10年間に三度、問われたのですね。
 リットン報告書、日独伊三国軍事同盟、それに日米交渉。つまり1932年にリットン報告書を受け取るかどうか、20日間で急いで三国軍事同盟を結ぶかどうか、1941年4月に始まり太平洋戦争の直前まで行われた日米交渉を妥結して、米国と戦争をしないことにするかどうか。「憲法原理」で譲れない部分の戦いだった。
 
「憲法原理」で譲れない部分の戦いとは?
 
──憲法原理とは。
 フランスの思想家・ルソーは、戦争がなぜ起こるかを一言で答えてくれている。戦争は、主権や社会契約に対する攻撃であり、敵対する国家の憲法に対する攻撃という形をとるものだと。この場合の憲法とは、具体的な条文ではなく、その社会を成り立たせている基本的秩序、憲法原理を意味する
 私が未練がましく、戦争において「たら」「れば」をしつこく言うのは、現実に歴史上起こったからといって、それがいちばん蓋然性の高いことだったわけではないからだ。
 
──いちばん高くはない?
 すぐに思い浮かべることができるのは最近の自然現象、熊本の地震だ。蓋然性が高かったわけではなく、次に地震が起こる確率は0.3%と学者が言い切れる事例だった。それでも、起こった。戦争は、交渉がいろいろな意味で失敗して起こる。戦争についてもその前に学者が予想していれば、こういう条件があってそれで戦争が起こる確率はコンマ以下だったと言ったかもしれない。
 起こった因果関係を歴史学者が勝手に説明するのではなく、さまざまな可能性を描くのが大事だ。非常に蓋然性は低くても、起こったことの意味の大きさから言えば、事実に驚いたほうがいい。それでも、起こったのだ。そう認識すれば、いずれにおいてもその過程でさまざまに努力を払うべき度合いを高くしようという促しになる
 
──その際は選択肢をはっきりさせることが必要ですね。
 三度問われた機会にも、選択肢が本当の実態を反映させた形でわかるようにメディアや学校で示されてはいない。そういう時代があったことをいつも頭の隅に置いておけば、「AするためにはBしなければいけない」「もしこうすれば、確実に~できる」というような選択肢を国家なり政党なりから問いかけられたときにも、批判ができるし、冷静な判断を下せる
 
──特に政治や外交では選択肢が見えにくい。
 仮に日本が困難な交渉に至り、世論が中国をたたけというような絶望的な方向になったとする。その最後の交渉に外相が行くのを、どうせダメといった気持ちで見るのではなく、むしろ0.3%の蓋然性でも起こったことがあると思い返し、あらゆる選択肢を思い起こすことだ。
 最悪の失敗例を詳細に知っておくことで、その失敗例が歴史上の現実になったこと自体、必ずしも蓋然性が高くて起こったのではなかったことを理解する。その連関をつぶさに知れば冷静に物事を見る目を養うことができる。
 
リットン報告書が一番の大きな曲がり角
 
──最悪の失敗例として、この三つを選んだ理由は。
 1929年に世界恐慌が始まっていた。この三つはいずれもそれ以降の日本の、経済的な行方を左右する条件を決めていく交渉事だった。中でも1931年の満州事変を契機とするリットン報告書が一番の大きな曲がり角だ。妥結の可能性も高くあり、松岡洋右外相もあれだけ粘る。中国側の報告書に対する本当の反応は、日本側の既成事実に配慮しすぎだと厳しく批判したもので、実際に読んでもらえば、報告書が中国側に一方的に肩入れしたとのイメージは一変するはずだ。そのあたりを丁寧に議論した。
 
 いずれも日本の憲法原理を問われ、それに答えなければいけない交渉事であり、米国と日本が不倶戴天の関係になっていく流れを促した。日本は第1次世界大戦以降、1920年代に資源を輸入して製品を輸出する大きな工業国として成長していた国。米国と協調できていた。それが1930年代からうまくいかなくなる。東アジア、西太平洋で米国の自由貿易、自由航行を許すのかどうか。両国の憲法原理で譲れない部分の戦いだ。それが戦争直前の10年間に三度にわたり問われたのだ。
 
──近年の中国にも似たことがいえるようですね。
 今も米国、英国、ロシア、中国ほか、あらゆる国にはそれぞれの憲法原理がある。そして、これは譲れないとそれぞれの憲法原理を世界に発信している。その中で中国に、その憲法原理は認められないと、世界からじわじわとシグナルが送られ始めている。10年間をかけて日本はどうするかを問われ、うまく対応できなかった。今、中国もベトナムに問われ、フィリピンに問われ、米国や日本にも問われ、そのような状況が積み重なり始めた。
 
国家の利害を代表する当事者たちの舞台裏
 
──この本は同時に世界史の中の日本政治経済史になっていますね。
 1930年代の歴史は政治経済が軸で展開する。日本において世界史の一角で国家の利害を代表する当事者が、死活的に命を削って交渉に励む姿が見えてくるだけではない。米国に資産を押さえられる前に横浜正金銀行にある日本円をいち早く下ろしていたとか、禁輸前に米国の国務省から揮発油の「輸入許可手形」をもぎ取るとか、あるいは交渉時に日本は米国の通信暗号を9割方解読していたとか、「切り結ぶ」舞台裏のエピソードに事欠かない。
 
──正統派の歴史書?
 若い人の中にいる「日本を愛したい、でも悪いことをやったというのでは愛せない」と言う人たちに伝えたい。確かに大きな失敗をして、失敗からのリカバリーも本当に大きな負担となった。この三つの交渉事の結果、日米戦争が起き、ドイツと米国の戦争も起こり、アジア、太平洋が日本軍の占領下に置かれて、世界がくまなく戦場になった。そういう大きな戦争を世界でつなげることをやった国だが、その後71年間頑張って文化的なコンテンツも含め幸せだと外からうらやまれる国になった。だから、愛していい国だと教えてあげたい
 
 現在、真面目な歴史書が自虐史観やお花畑状態などといわれることもある。実証的に支持されないことを言っていれば職を失う立場にある人間が、まじめに書いているから安心といわれながら、「学説知」と「世間学問知」の間を信頼感で埋める役割を担えればいいと考えている。
 
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リットン報告書(ウィキペディアより抜粋)
 
1931年(昭和6年)南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生し、その翌年、関東軍は満州国を建国しました。同年3月、中華民国の提訴と日本の提案により連盟から調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査し、9月に報告書(リットン報告書)を提出しました。
その内容は
 「柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。満洲国は、地元住民の自発的な意志による独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている
と、中華民国側の主張を支持しながらも、満洲に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきである。・・・・」などの日本側への配慮も見られます
 そして日中両国の紛争解決に向けて、下記のような提言を行っています
柳条湖事件以前への回復(中国側の主張)」「満洲国の承認(日本側の主張)」は、いずれも問題解決とはならない。
満洲には、中国の主権下に自治政府を樹立する。この自治政権は国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下、充分な行政権を持つものとする。
満洲は非武装地帯とし、国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担う。
日中両国は「不可侵条約」「通商条約」を結ぶ。ソ連がこれに参加を求めるのであれば、別途三国条約を締結する