2015年8月31日月曜日

戦争法案に反対する大学有志の声明

 
 29日、名古屋大学と東京電機大学有志の会が、安保法案に対する反対の声明を出しました。
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自由・平和・民主主義を愛し戦争法案に反対する名古屋大学人の会
戦争法案に反対する声明
2015年8月29日
 大学はかつて兵器を作った。
 大学はかつて兵士を送った。
 大学はかつて知識を供出した。
 大学は、かくして戦争に加担した。
 
 それは国家が要請したものであったと同時に、かつての大学人たちが進んで行ったことでもあった。勇気なく、あるいは気づかぬうちに戦争を支え、知性と良心の声を窒息させた。戦渦は、内からも来る。その過去を、私たちは忘れない。
 
 先の大戦後70年の「平和」は、曲折や翳りを含んでいる。平和の理念も、過去の反省も、個人の人権も、言論の自由も、学問の自律性も、つねに挑戦を受け、ときに自ら傷つけてさえきた。「戦後」は、平坦ではなかった。
 であればこそ、現在進行している危機に、私たちは黙してはいられない。
 
 いま集う「私たち」は多様である。
 世代を異にし、性別を異にし、国籍を異にし、立場や宗教や思想を異にする「私たち」は、しかし自由を尊び、平和を愛し、民主主義を尊重するという点において結集する。自立した個人として、対話を重んじる理性的市民として、知の自律性に価値をおく学徒として、手を取りあう。戦争を否定し、平和を求めるすべての人たちとの連帯を求める。
 大学が自由と平和と知の拠点でありつづけることは、私たちの理想であり、誇りである。「名古屋大学平和憲章」で不戦を誓った知性は、学びの日々が戦火につながることを許さない。私たちは、この灯を決して消さない。
 
 私たちは、日本と世界の人々の前で、日本国政府に次の約束を守ることを求める。
〈日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。〉(日本国憲法第九条)
 この言葉の意味と価値を、私たちの同意なしに変えることを認めない。私たちは戦争法案に強く反対する。
 
 
安全保障関連法案の廃案を求める東京電機大学関係者有志の会
声明文
2015年8月29日
   みなさん、国際平和の維持、安全保障を目的として1945年に設立された国際連合の憲章第2条4項に、次の条文が記されています。「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土又は政治的独立に対するものも、又、国際連合の目的と両立しないいかなる方法によるものも慎まなければならない」。ところで、最近この条文に異論を唱える人びとが現れております。従来、国連に対する過度の期待から第2条4項は基準とみなされてきたが、いまや国連の地位や権威は低下しており、自衛権の行使は例外でなくなりつつある、という見解が目立つようになっているのです。とても賛成できない見解であります。国連の地位が相対的に低くなったのであれば、その地位を回復することこそ国際平和に貢献することになるのです。この問題については、地位低下の原因なのか結果なのか、いずれにせよアメリカの責任は重大であります。その一例としてイラク戦争が挙げられましょう。この戦争を主導したアメリカは、当時、国連決議を経ないまま「大量破壊兵器」を口実にイラクを武力攻撃しました。国連(安全保障)を無視した集団的自衛の戦争は国際法に抵触するのです。国連軍介入が間に合わない緊急の事態でのみ一時的に集団的自衛は許されるだけなのです。しかしアメリカは国連憲章 第2条4項を無視して戦端を切ったのです。第2条4項には例外の一つとして自衛権の行使(51条)が関係するものの、それは国連憲章を無視してよい根拠には、けっしてなりません。
 
   みなさん、さらに思い出しましょう。安倍晋三首相は、2013年(平成25年)4月23日の参議院予算委員会で次の発言をしました。「侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違う」と。しかし「侵略の定義」(Definition of Aggression)はすでに1974年12月の国連第29回総会で議決されており、また近年では2010年06月に国際刑事裁判所の加盟国が「侵略犯罪」(Crime of Aggression)の規程に合意しています。日本もまた国連総会の一員であり、国際刑事裁判所の加盟国の一員であるという事実は、こうした定義を軽視するのにふさわしい理由といえるでしょうか? 国際法がなるほど不完全・発展途上だとしても、国際法が日本一国の都合で軽視できる程度の存在ならば、どうして無法国家を非難できるでしょうか? たとえば安倍首相のロジックを現在の日本の領土問題にあてはめてみましょう。いわゆる「北方領土」問題、あるいは竹島や尖閣諸島をめぐる外交において、もし相手国から安倍首相の言説を根拠にして領土問題の侵略性は「学界的にも国際的にも定まっていない」と主張されたなら、日本の法的立場はどうなってしまうでしょうか?
 
  振りかえれば過去の戦争、たとえば第二次世界大戦のドイツやソビエト連邦、あるいはイラクへの武力攻撃にせよ、侵略者は国際法を都合よく歪曲し、脅威論を煽りたてて自国の非人道行為を正当化しました。安倍政権のロジックは歴代の侵略国が行なってきた一連の欺瞞にあまりにも似すぎています。それはかって私たち日本国民が決別したはずの戦争・敗北への一歩に再びなりかねないばかりか、いずれ未来の世界史に現れるかもしれない戦争犯罪者に対して言い逃れの材料を与えたという点で人類全体の福祉を損なっているのです。
  過去から未来への連鎖としての戦争を世界史的に断ち切るには、脅威論や抑止論の立場から再武装する道を、ぜったいに選んではなりません。自衛のための武装は国際社会の現実からして必要悪だと譲歩しても、同盟国間の集団的自衛権と国連による集団安全保障は厳に区別せねばなりません。近隣諸国から攻撃されても太刀打ちできるくらいの武装は必要だ、との立場から軍備増強を平和維持の必須条件とみたり、アメリカ(米軍基地)を日本の平和・安全の抑止力とみたりしている人びとは多いです。でも、その考えは、世界史的にはビスマルクの時代から戦後の冷戦時代まで流布した戦略思想で、戦争状態の永続を意味するだけです。日本国憲法第9条があればこそ、集団的自衛権に関する先頃の安倍内閣の閣議決定を違憲と判断できるのです。
 
  安倍晋三首相は、2015年7月20日、フジテレビ系の「みんなのニュース」に生出演し、徴兵制との関連で戦争のハイテク化に言及しました。ところで、戦争のハイテク化は、由々しき倫理問題を含んでいます。戦場からの人間性の排除の問題です。科学技術の発展は、戦場のあり方を変え、武力紛争法のルールにも大きな影響を与えてきました。そのことは、20世紀の戦争に顕著であります。たとえば、飛行機の発明による空爆問題、化学兵器の問題、核兵器の問題など、技術と戦争をめぐる問題を挙げていけば、枚挙に暇がありません。21世紀に入ってアフガニスタンやイラクへ侵攻し、自国の兵士に多数の殉職者を出したアメリカでは、戦場へのロボットの投入が加速しています。例えば、無人偵察機プレデターは、米国本土の基地から操縦し、遠く離れたアフガニスタンなどで空爆を行うことができるのです。その他にも様々なロボット兵器が用いられています。民主主義国家であるアメリカでは、戦闘による国民の犠牲は、政権の支持率に如実に反映します。そのため、自国兵士の犠牲を減らすために、無人のロボット兵器が好んで用いられるのです。そのようにして、戦争のハイテク化=戦争の拡大に歯止めはなくなっていきます。
 
  同盟国アメリカとの友好関係はもちろん望むべきことではありますが、安倍政権が安保法制をもって今後も強力な同盟関係を築いていきたいと考える相手国アメリカ(米軍基地)を日本の平和・安全の抑止力とみるのは国際平和の理念に反します。軍拡競争による〔脅威・抑止〕対策でなく、日本国憲法と人道に基づく国際法とを基盤とし弛まぬ〔外交・合意〕を通じた平和維持という発想こそ、人類の英知なのです。よって私たちは、安倍政権が現在進めている安全保障関連法案という名の戦争法案に反対し、その即時撤回を求めます。