2015年7月25日土曜日

鶴見俊輔さんが亡くなりました

 「九条の会」の呼びかけ人の1人で戦後を代表する評論家・哲学者として知られる鶴見俊輔さんが、今月20日、93歳で亡くなりました。
 
 鶴見さんは日米開戦の翌年1942年にハーバード大学を卒業し、捕虜交換船で帰国しました。
 京都大学助教授を経て東京工業大教授になりましたが、60年の日米新安保条約採決に抗議して辞職しました。
 その後に就いた同志社大学社会学教授の職も、70年、大学紛争に警官隊を導入することに反対して退任しました。
 
 その後は市井の学者として小田実氏と「ベトナムに平和を! 市民連合」(ベ平連)を結成したり、2004年には井上ひさし、大江健三郎氏らと「九条の会」を結成して改憲に反対し、脱原発運動を進めるなど、最晩年まで「行動する哲学者」としての人生を貫かれました。
 
 生涯、市井の哲学者を貫いた鶴見さんの死に、親しい人たちからは悼む声が相次いでいます。 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
鶴見俊輔さん死去、93歳 哲学者、平和運動
中日新聞 2015年7月24日
 戦後日本を代表する思想家として知られ、リベラルな立場から平和運動などで大きな役割を果たした哲学者・評論家の鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ)さんが二十日午後十時五十六分、肺炎のため死去したことが二十四日分かった。九十三歳。東京都出身。京都市在住。遺族によると、遺言に従って葬儀はなく、火葬を終えたという。
 
 明治の政治家、後藤新平の孫で、昭和の国際派政治家・著述家鶴見祐輔の長男。日米開戦後の一九四二年、ハーバード大哲学科を卒業。同年、捕虜交換船で帰国した。
 
 四六年に社会学者の姉和子、経済学者都留重人(つる・しげと)、理論物理学者武谷三男(たけたに・みつお)氏らと雑誌「思想の科学」を創刊し、「言葉のお守り的使用法について」で論壇デビュー。庶民の生活や地域文化の記録による思想運動を目指し、注目を集めた。京都大や同志社大で教えるかたわら、イデオロギーやアカデミズムの枠にとらわれない思想史研究で独自の分野を確立した。思想の科学研究会では「転向」の共同研究を推進した。
 
 六〇年の日米新安保条約採決に抗議して東京工業大助教授を辞職し、市民グループ「声なき声の会」を組織した。六五年には故小田実(まこと)氏らと「ベトナムに平和を! 市民連合」(ベ平連)を結成。ベトナム戦争の脱走兵の援助や大村収容所の廃止運動などを展開した。
 
 「戦時期日本の精神史」で八二年に大仏次郎(おさらぎじろう)賞、九〇年には評伝「夢野久作」で日本推理作家協会賞を受賞した。他の主な著書に「限界芸術論」「転向研究」「戦後日本の大衆文化史」などがある。
 
 二〇〇四年には、井上ひさし、大江健三郎氏らと「九条の会」を結成して改憲に反対するなど、最晩年まで「行動する哲学者」としての人生を貫いた。
 
◆「安保の夏に…」惜しむ声
 「ベトナムに平和を! 市民連合」や「九条の会」などの活動を通して、国が抱える矛盾に真っ向から異を唱えてきた哲学者の鶴見俊輔さん。安全保障関連法案の衆院採決強行など政権への批判の声が高まる今、その存在の喪失を惜しむ声がわき上がっている。「この安保の夏に亡くなられるとは」「安保法制の闘いを見届けてほしかった」-。短文投稿サイト「ツイッター」には、鶴見さんの死去を時代状況の象徴と捉える声が目立つ。
 
 鶴見さんは一九六〇年、日米新安保条約の採決強行に抗議して、東京工業大を辞めている。七〇年には大学紛争への警官隊導入に反対して同志社大を辞職。信念を曲げなかった知の巨人の姿に触れ、現代の大学関係者の姿勢を問う投稿もみられる。
 
 二〇一一年の東京電力福島第一原発事故以降は、作家の大江健三郎さんらと並び、脱原発を目指す人々を精神的に支えた。東日本大震災後の講演では、「後退を許さない文明」の在り方を批判し「日米戦争に敗北してもなお目をそらしてきた根本の問題に直面している」と警鐘を鳴らしていた。
 
 
鶴見俊輔さん死去 悼む声相次ぐ
NHK NEWS WEB 2015年7月24日
日本の近代化を鋭く論じ、戦後を代表する評論家で哲学者としても知られる鶴見俊輔さんが、今月20日、93歳で亡くなりました。親しかった人たちから死を悼む声が相次いでいます。
 
鶴見さんは東京生まれで、ベトナム戦争への反対などの平和運動で中心的な役割を果たす一方で、哲学から大衆文化まで幅広い分野で研究や評論などを発表して数多くの研究者や文化人に影響を与えました。
また、平成16年には憲法擁護を訴える「九条の会」の設立に呼びかけ人として参加し、最近まで積極的に発言していましたが、今月20日、肺炎などのため京都市内の病院で93歳で亡くなりました。
生涯、市井の哲学者を貫いた鶴見さんの死に、親しい人たちからは悼む声が相次いでいます。 
 
大江健三郎さん「民主主義者そのもの」
「九条の会」の呼びかけ人の1人で、東日本大震災後に一緒に脱原発を訴える本を発表した作家の大江健三郎さんは「集会などで若い人といちばん話すのが鶴見さんでした。『民主主義者』そのものだったと思います。日本の立憲民主主義が戦後70年たって最も危ういときに来ているなかで、鶴見さんが亡くなったのは非常に残念です」と話しました。
 
梅原猛さん「いつも意識していた」
また、九条の会の呼びかけ人1人で長年親交があった哲学者の梅原猛さんは、「鶴見さんは学問が好きで、いろいろな本を読んで、独自の考え方を生み出す哲学者でした。哲学を民衆に分かりやすく伝えることに徹した姿勢は大きな功績だと思います。何とか追いつきたいといつも意識していましたが、訃報を聞いて、ひとしおの寂しさを感じています」と話していました。
 
加藤秀俊さん「伸びやかに学問に向き合った」
学生時代から鶴見さんと親交のあった社会学者の加藤秀俊さんは「鶴見さんは形式にとらわれず、日本のアカデミズムとも一定の距離を取りながら伸びやかに学問に向き合った人だった。いつもネクタイをしない姿にもそういった面が表れていたと思う。兄貴分がまた1人逝ってしまって寂しい」と話しています。
 
病床からメッセージ「戦争への動き止めて」
鶴見さんは去年6月、「九条の会」の発足から10年を記念して都内で開かれた集会にメッセージを寄せていました。集会で発表されたメッセージは、当時すでに闘病中だったという鶴見さんが家族を通じて「今、動けないのが、残念です。戦争への動きを止めなくてはなりません。『九条の会』に、思いを託します」とみずからの思いを記しています。
「九条の会」の事務局長を務める東京大学の小森陽一教授は「結果的にこれが鶴見さんの最後のメッセージとなったが、短いなかにも強い危機感が伝わってきた。安全保障関連法案が衆議院で強行採決されたこのタイミングで鶴見さんを失うのは大きな痛手だが、遺志を継いで運動を進めていきたい」と話しました。
 
 
写真