沖縄タイムスは、これから2015年9月までの約1年間、戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」を、実際の経過に即しながら随時、掲載するということです。
70年が経ちましたが決して忘れてはならない太平洋戦争における沖縄の悲劇です。
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(社説)[地に刻む沖縄戦 玉砕と「自決」] 絶望的な抗戦の果てに
沖縄タイムス 2014年11月8日
今から70年前のこの時期、1944年10月から11月にかけて、アジア・太平洋戦争の行く末を暗示する二つの出来事があった。
日本海軍の神風特別攻撃隊がレイテ沖で初めて米艦隊を攻撃したのは44年10月25日。生きては帰れない捨て身の戦法だった。11月24日には、マリアナ諸島から発進した米軍の大型爆撃機B29が東京を初空襲した。
日本軍はすでにこの時点で、勝ち目のない絶望的な抗戦局面に立たされていたのである。とりわけ国民に大きな衝撃を与え、東条内閣総辞職の引き金になったのは、7月のサイパン陥落だった。
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国が南進政策を推進したこともあって、日本の委任統治領だったサイパンには43年時点で約4万人の沖縄県人がいた。邦人の約6割にあたる。
沖縄市に住む高里盛昭さん(79)は、父・光蒲、母・カマドの次男としてサイパンで生まれた。
父親の光蒲は、サイパンに農業移住し、島の山あいの土地を開墾してサトウキビづくりに取り組んだ。一家を連れてガラパンの町に移り、商いを始めたのは盛昭さんが4歳か5歳のころだという。
44年6月11日、米軍機動部隊による猛烈な空襲が始まった。いつもと様子が違う。米軍機は機銃掃射と爆弾投下を繰り返し、市街の至るところに火の手が上がった。
隣組の防空壕に避難していた高里さん一家は、天井から土砂が崩れ落ちランプが揺れる様を見て危険を感じ、町を離れて山の方へ逃げた。島の中央にそびえるタッポーチョ山のふもとの、深い樹木に覆われた洞窟だった。
米軍は空襲と艦砲射撃で執拗に攻撃を繰り返したあと、6月15日、島の西側チャランカノアに上陸した。軍民混在の戦場で起こったことは、沖縄戦の「原型」ともいえるものだった。
高里さん一家は、「作戦に使う」との理由で日本兵に洞窟の明け渡しを要求された。無防備のまま砲火に身をさらされることになったのである。転々と場所を変えて逃げていくうちにたどり着いたところは島の最北端だった。
米軍が上陸したとき、日本の民間人約2万人が島に残っていたといわれる。砲爆撃で多くの住民が犠牲になったが、目の前に迫る米軍におびえ、自ら命を絶つ住民も多かった。
追い詰められて崖から飛び降りる。家族が身を寄せ合って手榴(りゅう)弾のピンを抜く。海岸まで降りて海に入る。盛昭さんの両親と姉・良子、弟・光昭の4人もそうだった。
いつの間にか家族とはぐれてしまった盛昭さんは、4人の最期を見ていない。
一緒に海に飛び込んだが、泳ぎができたばかりに死にきれなかった兄の光清が戦後、盛昭さんに4人の最期を伝えた。父親は7歳の息子を背におぶり、母親は15歳の娘の手を取って深い海に沈んでいったという。
約3千人の日本軍将兵は7月7日、「バンザイ突撃」を試み、ほぼ全滅した。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」という戦陣訓の教えに従って、捕虜になるのを拒否したのである。「悠久の大義に生きるを悦びとすべし」という南雲忠一海軍中将の最後の訓示もやはり、玉砕を求める内容であった。
サイパンでの日本軍の戦死者4万4千人、民間人の戦没者1万2千人。なぜ、日本軍は将兵や民間人の死を「鴻毛(こうもう)」のように軽く見たのだろうか。
サイパンだけではない。マリアナ諸島の多くの島で、将兵の「玉砕」と、民間人の「自決」が相次いだ。
マリアナ諸島が陥落して以降の戦闘は、日本にとって事実上、勝ち目のない絶望的な抗戦だった。軍民の犠牲者がその時期に集中している事実を軽く見ることはできない。
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戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」は2015年9月までの約1年間、実際の経過に即しながら随時、掲載します。