2014年10月14日火曜日

唖然とする指導者の姿・・・御嶽山、もんじゅ、そして原発

 武田邦彦氏のブログを紹介します。
 原発関連の記事でもあるのですが、より広く現代社会の病相として捉えておられるので、こちらで取り上げます。
 
 記事中に「両価性」という聞きなれない言葉が出てきます。
 また、原子力関係の人たちは、どんなに大きな事故を引き起こしても「事故」とは呼ばないということも出てきます。
 「事故」と呼ばずに「事象」と呼んでいるようですが、まことに不思議な感覚です。
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唖然とする指導者の姿・・・御嶽山、もんじゅ、そして原発
武田邦彦 20146年10月12日
 
 「50歳以上の男性の不誠実」はどこまで続くのだろうか? これには深い原因があるので、それはまた別の機会にゆっくり整理をすることにして、まずは事実を一つ一つ考えていきたい。
 
 御嶽山の噴火で犠牲になった人は無念だろう。なにしろ御嶽山の山頂で地震を測定していたはずの地元自治体の地震計は故障していて、11月頃、名古屋大学から新しい地震計が運ばれる予定だった。
 つまり、御嶽山の噴火が予知できなかった大きな理由の一つは、「地震計が壊れていた」ということと思う。これに対して気象庁側は「頂上の地震計などいらない」と言い訳をしているが、それなら最初からいらないし、科学の常識から考えても「遠くにある地震計」より、「できるだけ近くに多くの観測点があったほうが良い」のは当然でもある。
 地震計が壊れていたことがバレると、「もともといらない」と言いながら、実は急いで設置しようとしていたのだから、本当に不誠実だ。また、噴火の危険性を示すレベル1は「安全に登山できます」とされているのに、事故が起こると「火山はいつでも噴火する。そのぐらいはわかっているはずだ」と開き直る。
 
 もともと御嶽山は学校の遠足でも行くところで、8号目までロープウェーが行っている。何を見ても、今まで噴火予知委員会は「御嶽山で50人もの犠牲者がでるような噴火はない」と判断していたに決まっている。
 お弁当を作って食中毒を出しても、航空機を飛ばして墜落しても、「わからなかった」ではすまない。判らなければお弁当を売ってはいけないし、墜落するかどうかわからない航空機に人を乗せてはいけない。食中毒や墜落で人が死んだら、「食品だから 食中毒が起こることぐらいわかっているだろう。臭かったら食べるな。」と言ったり、「人間が空を飛ぶのだから危険は承知だろう」などということはできない。
 
 ところで、今日の新聞に「もんじゅ(原発)で監視カメラが180台ついているのにそのうち、約3分の1が故障したまま放置されていたことがわかった」と記事にある。どうせ監視カメラは国の税金だし、危険でも安全と言えば良い(もんじゅは二度の事故を起こしているが、決して「事故」とは呼んでいない)と思っている。私たちは信じられないが本当にそう思っている。そうでなければ安全を保つのに必要だから購入して設置してあるカメラを故障したまま放置することはない。
 ひどいものだ。でも、それは私たち国民はすでにわかっている。東京の電気の3分の1が新潟と福島という300キロも離れたところに原発をおいて送電していた。いま、経済界のトップである経団連は原発を再開するのに賛成である。そこで質問をしてみたい。
武田「会長さん、原発は安全ですか?」
会長「そりゃ、安全だよ」
武田「送電ロスがかなりあるのですが、なぜ東京に作らないのですか?」
会長「そりゃ、危険だからだ」
 だれでも驚く会話だ。でも、今度の御嶽山の噴火のあとの噴火予知会長の会話とまるでそっくりだ。
記者「レベル1は安全に登山できるのですか?」
会長「そりゃ、安全だよ。レベル1の説明を見ただろう。君は」
記者「でもレベル1で50人以上も犠牲になりましたが」
会長「そりゃ、君。大人なら火山が危険だぐらい知っているだろう」
記者「火山が危険なら、なぜレベル1が安全なんですか?」
会長「俺たちはその場その場なんだ。そんなことも分かっていないのか」
 ということだ。経団連の会長が「原発は安全で、危険だ」といい、噴火予知会長が「御嶽山は安全だが、火山だから危険だ」と平然というのとまったく同じ感覚である。
 
 これを「両価性」という。同時に二つの矛盾したことをいっても本人は気がつかない。自分の名誉、お金、利権、権威などに惑わされた一種の精神病である。でもこのような人が日本を指導しているし、それを私たち自身が厳しく追及もせず、そのまま認めているのだから、かわいそうに11歳の子供も含めてぎせいになった。大人の責任だろう。
 今でも原発を再開するのに賛成している人が多いぐらいだから。