2014年5月4日日曜日

「9条とわたし」 第1回 (東京新聞神奈川版)

 東京新聞が「9条とわたし」の連載を始めました。
 第1回目は、高校年のとき修学旅行で長崎の被爆者の下平作江さん(79)の体験を聞き、高校3年生の夏休み、JR桜木町駅前で核兵器廃絶のための署名を約4600集め、「高校生平和大使」として、スイス・ジュネーブの国連欧州本部に届けた相原さんを取り上げました
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9条とわたし<1>
  横浜の大学2年生 相原 由奈さん(20) 平和のバトンつなぐ
東京新聞 2014年5月3日
 戦争を体験していない世代が、戦争の悲惨さを語り継ぐことができるのか。
 広島、長崎で原子爆弾に身をさらされた語り部の多くが八十歳を超えようとする今、一人の大学生が一つの出会いをきっかけに、その問いに向き合っている。
 青山学院大文学部二年の相原由奈さん(20)=横浜市緑区。聖セシリア女子高(大和市)三年生だった二〇一二年の夏休み、学校の補習後に毎日、JR桜木町駅前で核兵器廃絶のための署名を集め、約四千六百筆を「高校生平和大使」として、スイス・ジュネーブの国連欧州本部に届けた。
 
 「先生、何かやりたいんです。今行動しなければ」
 相原さんにそう言わせたのは、高校二年の夏、修学旅行での出会い。長崎市の教会で、語り部の下平作江さん(79)の体験を聞いたことだった。
 「あなたたちが被爆体験を直接聞くことのできる最後の世代です。平和のバトンを受け取り、次の世代に渡してほしい」
 相原さんたち百二十人の生徒に語りかけた下平さん。十歳の時、原爆投下を長崎の爆心地から八百メートルの防空壕(ごう)で迎えた。母、姉、兄を原爆で失い、妹は後遺症に苦しんで自ら命を絶った。
 
 「後遺症」。その言葉が相原さんの記憶と共鳴したのかもしれない。
 自身も中学時代の一年間、原因不明の貧血と体のしびれに苦しみ、学校に通えない時期があった。幼少期に公園で友だちとぶつかったことが原因だと分かり、今は日常生活に支障がないまでに回復した。
 「偶然の事故は避けられない。原爆は人の意志で避けられたはずなのに、下平さんは大切な人をなくした」。修学旅行から戻ると、「生きていてくれてありがとう」と三歳下の妹を抱きしめ、平和大使に申し込んだ。
 「黒焦げの遺体、誰にも拾ってもらえないたくさんのお骨。最初は泣きながら話をしていました」。下平さんは、四十年近い語り部の活動を振り返る。
 「親やきょうだいがいるのが当たり前という子どもたちにも分かりやすく、言葉を替えながら。何かの拍子にひとりぼっちになることを考えてもらえば、私の気持ちも少しは伝わるかもしれない」
 体験の伝達は、戦争経験者にとっても試行錯誤の連続だった。内臓を切除し、腰を人工骨で支え、肝硬変を注射で抑えながら、重ねた講演は一万回を超えた。「最近は緑内障に悩まされてね。満身創痍(そうい)の私を見てもらうことも、戦争を考えてもらうきっかけと思っていますよ」
 戦争体験者の尽力で、反戦の思いをつないできた日本。語り部の高齢化に伴い、戦争体験のない人たちが代わって語り部を行う「語り継ぎ部」を育成する動きも広がっている。
 
 相原さんは「被爆体験を直接聞きたい」と、卒業後に長崎に長期間滞在することを考えている。そして歴史を勉強し、社会科の先生になり、「平和活動をライフワークにしたい」と語る。下平さんはエールを送る。
 「生きていれば明るいことや美しいことが必ずある。戦争だけはしないように。今憲法九条が揺らいでいるけれど、一人一人が自分の生活を通じて、平和を考えていってほしい」 (皆川剛)
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 集団的自衛権、国民投票法、武器輸出解禁…。今も米軍基地を抱える神奈川の人たちは、憲法九条の現状をどのように受け止めているのか。平和憲法が施行されて三日で六十七年を迎えるのを機に若者や母親、戦争体験者たちを訪ねた。
 
 <高校生平和大使> 核兵器廃絶を求める署名をスイスの国連欧州本部に届け、平和に向けてのスピーチを行う日本の高校生たち。1998年、インドとパキスタンで相次いだ核実験を受け、唯一の被爆国として国連に直接訴える機会を設けようと、長崎市民らが長崎の高校生の渡航費をカンパして始まった。2005年に全国の高校生に対象を拡大。以来、神奈川県は長崎県以外では唯一、毎年大使を輩出している。
 
◇日本国憲法第9条
 (1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 (2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。