2014年4月29日火曜日

集団的自衛権の行使事例にはどんなものがあったか

 「明日の自由を守る若手弁護士の会」のホームページ(http://www.asuno-jiyuu.com/)26日、28日号に「集団的自衛権の実例~うわ、結局戦争じゃん~1、」が掲載されました。
 そこで2009年1月に発表された「集団的自衛権の法的性質とその発達 ―国際法上の議論― 松葉 真美)」の論文に掲載された、これまで国連憲章第51条に従って安保理に集団的自衛権の行使として報告された主な事例、の概要が紹介されています。
 
 具体的には下記の11の事例で、殆どは大国による内戦への介入や懲罰的?意図に基く侵略です。 戦争そのものに他なりません。
 
 1 ソ連/ハンガリー(1956年)
 2 米国/レバノン(1958年)
 3 英国/ヨルダン(1958年)
 4 米国/ベトナム(1965‒75年)
 5 ソ連/チェコスロヴァキア(1968年)
 6 ソ連/アフガニスタン(1979年)
 7 米国/ニカラグア(1981年)
 8 リビア/チャド(1981年)、フランス/チャド(1983年、1986年)
 9 イラクによるクウェート侵攻(1990年)
10 ロシア/タジキスタン(1993年)
11 米国/アフガニスタン(2001年)
 
 以下に「事例の概要」に関する部分を紹介します。
(ホームページにはまだ「7 米国/ニカラグア(1981年)」までしか紹介されていませんので、8~11と「おわりに」は下掲の同論文から直接引用しました)
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集団的自衛権の法的性質とその発達 ―国際法上の議論―  
松葉 真美         
 
Ⅵ 集団的自衛権の行使事例
 Ⅱ章で述べたように集団的自衛権は、冷戦下の国際社会において、武力攻撃が起きたにも関わらず、大国の拒否権によって安保理が機能せずに犠牲国が放置されるという事態を避けるために規定された。そして今日までに、集団的自衛権の行使を約した集団防衛条約が二国間、多国間を問わず数多く締結されてきた。しかし、これまでに実際に集団的自衛権が行使された事例を振り返ってみると、その数はさほど多くない。以下、これまでに集団的自衛権の行使が国連憲章第51条に従って安保理に報告された主な事例を紹介する。
 
1 ソ連/ハンガリー(1956年)
 1956年10月、ハンガリーにナジ政権の復帰を求める反政府デモが起きると、ソ連の軍隊がハンガリー領域に進入し大規模な戦闘が行われた。ソ連は、安保理において、ハンガリー政府の要請に基づき、ワルシャワ条約に従ってハンガリーを防衛するために行動したと説明した。しかしこの要請は、既に首相に復帰していたナジではなく、ゲレー第一書記が行ったものであり、正当政府による支援要請といえるかは疑わしい
 その後ナジ首相は、ワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立的地位を宣言し、連立政府を組織したが、ソ連軍はハンガリーの抵抗を打破し首都を占領した。国連では、ソ連の撤退を要請する安保理決議案がソ連の拒否権行使により否決されたため、米国の要請により緊急特別総会が開催された。緊急特別総会でもソ連は、ハンガリー正当政府の要請に基づき、ワルシャワ条約に従って軍隊を展開したと主張した。総会は、ハンガリーへの干渉の中止とソ連軍の撤退を要請する決議を採択した。
 
2 米国/レバノン(1958年)
 諸宗教・宗派のモザイク国家であるレバノンでは、イスラム教シーア派その他の貧困層の人口増加に伴い、支配階級にあるキリスト教マロン派に対する不満が高まりつつあった。1958年5月に内乱が発生すると、レバノン政府は、アラブ連合共和国がレバノンの内政事項に干渉していると国連安保理に報告した。安保理はレバノンに国連監視団(United Nations ObservationGroup In Lebanon: UNOGIL)を派遣することを決定した。しかし7月にUNOGILは、アラブ連合共和国からの干渉の証拠を見出せないとの報告を安保理に提出した。これに不満を持ち、また同時期に起きたイラクのクーデターの影響が自国に及ぶことを懸念したレバノン政府は、米国に対し軍事介入を要請した。これを受けて米国はレバノンに派兵し、安保理において、自国の行動は国連憲章第51条による集団的自衛権に基づいた行動であると説明した。
 
3 英国/ヨルダン(1958年)
 ヨルダンはアラブの中でも最も親西欧的な国であったが、1950年代初めから国民によるアラブ民族主義運動が高まっていた。ヨルダン王室は、1958年2月に、同じく王制を敷くイラクとアラブ連邦を結成し、王制を守ろうとした。しかしその5か月後、イラクではクーデターにより王制が倒れ、共和国が誕生した。そこでヨルダンは、アラブ連合共和国による脅威からヨルダンの独立を守るべく、国連憲章第51条に基づき英国に軍事援助を求めた。英国は、直接又は間接侵略に対抗するための支援要請を受けた国はそれに応える権利を有すると強調し、ヨルダンの要請を受け、その領土の保全と政治的独立を守る目的のため派兵したと安保理で説明した。
 
4 米国/ベトナム(1965‒75年)
 ベトナムでは第二次世界大戦直後から独立戦争が続いていたが、1960年代前半までは米国の介入は本格化していなかった。しかし、1964年8月に起きたトンキン湾事件(米艦と北ベトナム艇の交戦)の後、米国連邦議会は、国連憲章及び東南アジア集団防衛条約に基づく義務に従い、兵力の使用を含む必要なあらゆる手段をとる旨決議した。翌年2月、米国はこの決議に基づき北爆を開始し、以後漸増的に地上戦闘部隊を派遣した。米国務省は、北ベトナムに対する軍事行動の根拠として、南ベトナム政府からの要請があったこと、及び国連憲章第51条に基づく集団的自衛権と東南アジア集団防衛条約に基づく防衛義務を挙げた。
 なお、南ベトナムがこうした要請を行いうる国家といえるのか、そもそもベトナム戦争は内戦であって外部からの干渉は違法ではないのか、また仮にベトナム戦争が国際紛争であるとしても集団的自衛権の行使要件である武力攻撃は発生していたのか、といった論点をめぐって議論がある。
 
5 ソ連/チェコスロヴァキア(1968年)
 チェコスロヴァキアでは、1968年1月に改革派のドゥプチェクが第一書記に就任すると社会主義体制の改革運動(「プラハの春」)が始まった。共産党による一元的支配を弱め、検閲を廃止し、言論の自由を認めるなど「人間の顔をした社会主義」を目指す改革は、次第に国民的運動へと発展した。こうした自由化の影響が自国に及ぶことを恐れたソ連や東欧諸国は、8月にワルシャワ条約機構軍を編成してチェコスロヴァキアに軍事介入し、改革運動を鎮圧した。
 ソ連は、安保理において、軍事介入はチェコスロヴァキア政府の要請に基づくものであり、国連憲章及びワルシャワ条約に規定された集団的自衛権に完全に合致すると説明した。ただし、この説明はチェコスロヴァキア政府によって否定された。
 このようなソ連の説明は、社会主義に敵対的な内外の勢力により一国内で反社会主義化が進められる場合、これを社会主義体制全体の利益に対する脅威として、武力介入が正当化されるというブレジネフ主義(「制限主権論」ともいわれる)を生み出した。
 
6 ソ連/アフガニスタン(1979年)
 1978年4月、軍事クーデターにより親ソ政権が誕生したアフガニスタンでは、土地改革を基本とする社会主義革命が進められ、ソ連との間では友好協力善隣条約が締結された(113)。しかし、革命路線に反発した地主やイスラム指導者らによる反乱が各地で発生した。1979年12月、ソ連はアフガニスタンに軍事介入した。
 ソ連は、安保理において、この軍事介入は、アフガニスタン政府の要請に基づくものであり、二国間の友好協力善隣条約及び集団的自衛権を規定した国連憲章に一致した行動であると説明した。ソ連の介入を非難する安保理決議案はソ連の拒否権行使により否決されたため、緊急特別総会が開催された。総会は、外国軍隊の即時、無条件の全面撤退を要請する決議を採択した。しかしその後も、国境地帯に集結していた兵力がアフガニスタン国内に展開されるなど、アフガニスタン駐留のソ連軍は増強された。ソ連軍の撤退が完了したのは1989年であった。
 
7 米国/ニカラグア(1981年)
 Ⅴ章参照。原文
  米国は、コントラ(ニカラグアの親米反政府民兵)への軍事援助、資金供与を行うだけではなく、ニカラグアの港湾に機雷を敷設し、空港、石油貯蔵施設などを攻撃した。そのためニカラグアは、米国の行為を国際法違反であるとしてICJに提訴した。これに対し米国は、自国の行為を、ニカラグアによるエルサルバドル、ホンジュラス、コスタリカへの武力攻撃に対する集団的自衛権の行使であると主張した。後に国際司法裁判所(ICJ)で
紛争になり,ICJはニカラグアに対する行動を集団的自衛権の行使とする米国の主張を退けた
 
8 リビア/チャド(1981年)、フランス/チャド(1983年、1986年)
 1960年にフランスから独立したチャドでは、北部のアラブ系イスラム文化圏と南部のバンツー系文化圏の対立により、1966年以来内戦が続いていた。しかし、この内戦は次第に南北対立から北部勢力(チャド民族解放戦線:FROLINAT)内部の対立となっていった。1979年に南北の和解により、FROLINAT指導者のグクーニを大統領とする統一暫定政権が成立したものの、1980年には国防相ハブレによる首都制圧の試みにより政権は崩壊した。
 1980年12月、グクーニ政権の要請に基づきリビアが軍事介入した。リビアは、自国の介入はチャド政府の要請と1980年6月に締結されたチャド・リビア友好同盟条約に基づくものであり、リビア軍のチャド駐留はあくまでも一時的なものであることを強調した。そして1981年11月、リビアはチャド政府の要請に従って撤退した。
 しかし1982年、スーダンに逃れ、エジプト、スーダンから軍事援助を受けていたハブレが再び首都を制圧し、大統領に就任した。さらに1983年6月には、リビアの支援を受けたグクーニが反撃を開始したため、内戦が再び激化した。そこでハブレ政権は、フランス軍の介入を要請した。フランスは、1976年の軍事協力協定に基づくものとして自国の行動の正当性を主張した。1984年9月、フランスとリビアは、チャドからの同時完全撤退に合意したが、最終的にリビアは撤退しなかった。
 1986年2月、チャドでは再び内戦が激化し、政府軍が仏空軍の支援を受けてグクーニ派反政府軍の攻撃に反撃する事件も起きた。この時もハブレ政権は、国連憲章第51条に基づいてフランスに軍事介入を求めていた。フランスは、安保理において、軍事介入はチャド政府の要請に基づき、国連憲章第51条に従った行動であると説明した。
 
9 イラクによるクウェート侵攻(1990年)
 1990年8月、イラクがクウェートに侵攻し、併合を宣言した。直後に開催された安保理は、イラクによる国際の平和と安全の破壊を認定し、イラク軍の即時、無条件撤退を要求する決議第660号を採択した。安保理は続いて、国連憲章第41条に基づき対イラク経済制裁を課すことを決定した決議第661号を採択した。この決議第661号は前文で、イラクによるクウェートに対する武力攻撃に反撃するための国連憲章第51条に基づく個別的又は集団的自衛権を確認(affirm)している。米国、西欧諸国、アラブ諸国は、クウェート及びサウジアラビア政府の要請を受け、個別的及び集団的自衛権を行使し、決議第661号に違反する船舶の通航を阻止すると安保理に報告した。その後、安保理は決議第665号を採択し、加盟国が決議第661号の措置を実施するために必要な措置をとることを認め、さらに11月には決議第678号を採択し、加盟国に対し国際の平和と安全を回復するため必要なあらゆる手段をとる権限を与えた。
 しかし決議第661号が採択された段階から、ペルシャ湾付近の公海を航行中の第三国船舶に対する干渉根拠や、安保理による強制措置である経済制裁の決定と自衛権の行使が同一決議文に書かれていることの整合性をめぐり議論が生じていた。また、これらの海上阻止行動が自衛権によって正当化されるとしても、決議第665号や第678号の採択後には、安保理が軍事力の使用を含む措置を容認したと解釈しうることから、「安全保障理事会が……必要な措置をとるまでの間」という自衛権の時間的要件との関係が問題となった。さらに、国連憲章第7章に言及しているものの特定の条文を引用しなかった決議第678号の国連憲章上の位置付けをめぐっても議論がある。
 
10 ロシア/タジキスタン(1993年)
 1991年、ソ連の崩壊によって独立したタジキスタンでは、政府(共産党勢力)と、野党(イスラム勢力と手を組んだ民主化勢力)が対立していた。1992年3月に首都で始まった市街戦は各地に飛火し、タジキスタンは本格的な内戦に突入した。この内戦は、単なるイデオロギー対立ではなく、タジキスタンに深く根づく地縁主義によるものだといわれる。結局連立政権の試みも失敗し、1992年11月に、ロシア、ウズベキスタンの軍事支援を受けた共産党勢力「人民戦線」が政権を掌握した。しかし反政府勢力はアフガニスタンへ逃れ、タジキスタン・アフガニスタン間の国境を越えて繰り返し政府軍への攻撃を行った。
 こうした国境地帯での紛争に対し、1993年7月、ロシアは、二国間友好協力条約に基づき、国連憲章第51条に規定された集団的自衛権を行使し、軍事援助を含む支援をタジキスタンに行う準備があると表明した。そして8月、ロシア、カザフスタン、キルギスタン及びウズベキスタンは、アフガニスタンの支援を受けた反政府勢力の攻撃をロシア国境警備隊とタジキスタンに対する侵略とみなし、CIS集団安全保障条約と国連憲章第51条に基づいて集団的自衛権を行使し、タジキスタンに軍事援助を含む緊急支援を行ったと安保理に報告した。
 
11 米国/アフガニスタン(2001年)
 2001年9月11日に米国で発生した同時多発テロに対し、国連総会、安保理はテロ攻撃を非難する決議を相次いで採択した。安保理決議第1368号は、あらゆる国際テロ行為を国際の平和と安全に対する脅威であると認定し、それらに対処するために必要なあらゆる措置をとる準備があることを表明した。続く決議第1373号は、国連憲章第7章に基づく強制措置としてテロ行為への資金提供の禁止などを決定した。いずれの決議も、その前文で個別的又は集団的自衛権を確認(recognize) している。また、NATO(North Atlantic Treaty Organization:北大西洋条約機構)やOAS(Organization of American States:米州機構)もテロ行為に対する個別的又は集団的自衛権を行使する準備があることを表明した。これらを受けて米国は、10月7日にテロ組織及び同組織を援助するアフガニスタンのタリバン政権に対し軍事行動を開始した。米国は、安保理に対し、9月11日に自国に対して武力攻撃が行われたことから、他国と共に個別的又は集団的自衛権を行使したと説明した。

おわりに
 もともと集団的自衛権は、大国の意向ひとつで機能が麻痺してしまう可能性を秘めた国連の集団安全保障体制を補完するために、また自らの力では攻撃に対抗できない中小国を共同で防衛するために、国連憲章第51条に規定された。そしてこの規定に基づき、これまでに二国間又は多国間において数多くの集団防衛条約が締結されてきた。これらは潜在的な敵に対する抑止となり、ひいては中小国の保護という一定の効果をもたらしたことが認められる。
 しかし、集団的自衛権の法的性質そのものについては現在も学説の一致を見ていない。また、加盟国が個々の判断で武力行使に踏み切ることを認める自衛権は、厳密には個別的安全保障として作用し、集団安全保障体制とは矛盾するとともに、常に濫用の危険をはらんでいることも否めない。それゆえに国連憲章は、「武力攻撃」の発生という厳しい行使要件と、「安全保障理事会が……必要な措置をとるまでの間」という時間的要件を付した。そしてICJも、ニカラグア事件判決において、集団的自衛権を行使するためには被攻撃国による攻撃事実の宣言及び援助要請が必要だとした。
 だが、これまでの実際の集団的自衛権の行使事例を概観すると、集団的自衛権がしばしば濫用されてきたことがわかる。そこで論点となってきたのは、武力攻撃の発生の有無及び援助要請の正当性だった。冷戦後の地域紛争の増加や9.11テロのような事件の再発の可能性から、外部からの武力攻撃の存否や正当政府による援助要請の有無をめぐる議論は今後も提起されると思われる。したがって、これらを正しく見極めた上での集団的自衛権の行使が国際秩序の維持のために必要であろう。
 このように、集団的自衛権は国連憲章に規定された、すべての加盟国が有する国際法上の権利であるが、その法的性質や実際の行使をめぐっては国際法上も議論がある。確かに日本における議論がこの国際法上の議論とは乖離していることは否めない。しかし、持てる権利を行使するか否かは各国家の自由である。日本政府の集団的自衛権の解釈をめぐる議論においても、政府解釈を一方的に否定するのではなく、国連の集団安全保障の例外措置である集団的自衛権の行使が必ずしもすべての国家に肯定的に受け入れられるとは限らず、むしろ濫用の危険性から平和への脅威となりうるとの指摘もあることをふまえ、集団安全保障体制との整合性を意識して今後の議論を進めていくことが望まれる。 (まつば まみ)