2014年3月12日水曜日

11日の各紙社説

 東日本大震災3年目の11日の各紙は、社説に「大震災3年」に関する社説を掲げました。
 特に北海道新聞は9~11日の3日間連続の、また高知新聞は10~11日の2日間連続の社説を掲載しました。
 
 東京新聞と北海道新聞の社説(北海道新聞は「上」のみ)を紹介します。
 
 北海道新聞の「中」以降は道内のことに主力を置いているので割愛しますが、以下のような驚くべき内容が含まれています
 北海道の太平洋沖を震源とする巨大地震ほぼ500年間隔で起きているので、「次」の大地震は切迫している。道は2012年の浸水域などの見直しで津波高を最大35メートルとし、その結果日本海側とオホーツク海側を含めると45万人もの人が津波に襲われる浸水域に暮らしていることが分かったが、過去3年間、「南海トラフ」と「首都直下」大地震に政府は重点置き南海トラフ地震の避難困難地域では、すでに避難タワーやシェルターの建設が進められているのに、道にはその緊張感は感じられない。
 道は犠牲者数や経済に与える打撃など被害想定の改定を急ぎ、市町村も対策を加速すべきだ
  
 下記の社説の見出しをクリックする本文にジャンプします。
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3・11から3年 死者の声に耳傾けよ                  東京新聞 
専門超える知を集め想定外なくせ                     日経新聞
大震災から3年 「フクシマ」は今も続く                 南日本新聞 
大震災から3年 風化させず再生を考えよう         宮崎日日新聞
原発事故被害 第三者の目で総ざらいを             西日本新聞 
大震災3年 原発事故の教訓直視せよ                山陽新聞 
原発事故と再稼働/とても認められる状況でない   神戸新聞 
大震災3年  被災地の現実見えているか             京都新聞 
福島の3年 復興を見据え続ける                      信濃毎日新聞 
震災3年  「福島の今」 を見つめよう             高知新聞 
震災3年 上 生活の再建はこれからだ                同上 (3/10)
大震災3年 下 住民の命を守るもっと危機意識を持って             北海道新聞
 
(社説) 3・11から3年 死者の声に耳傾けよ
 東京新聞 2014年3月11日
 津波の国に住みながら、われわれは、先人の経験を風化させてはいなかったか。大震災の悲しみを忘れず、未来に向けて死者の声に耳を傾けたい。
 故・吉村昭さんの著書「三陸海岸大津波」(文春文庫)に、印象に残る一節がある。
 三陸海岸の羅賀(らが)(岩手県田野畑村)での出来事である。
 はるか眼下に海を望む丘の中腹に立つ民家。一八九六年の明治三陸大津波を知る当時八十五歳の古老は、家の中に漂流物があふれていた、と振り返った。
◆風化する惨事の記憶
 その話を聞き、取材に同行していた田野畑村長が「ここまで津波が来たとすると…」と驚きの声をあげたというのである。
 この本が「海の壁」の原題で出版されたのは一九七〇年。その時すでに、地元でも、惨事の記憶は風化しつつあったのだろうか。
 文庫版のあとがきとして、吉村さんは、その羅賀で二〇〇一年に講演した際のエピソードを書き加えている。
 「話をしている間、奇妙な思いにとらわれた。耳をかたむけている方々のほとんどが、この沿岸を襲った津波について体験していないことに気づいたのである」
 明治の大津波では羅賀に五十メートルもある津波が押し寄せた、という話をしたところ、沿岸市町村から集まった人々の顔に驚きの色が浮かんだのだという。
 羅賀の高台には、明治の大津波で海岸から運ばれたと伝えられる巨石があった。一一年三月十一日の津波は、その「津波石」と集落を再びのみ込んだ。
 親も子もない。助けを求められても、立ち止まらずに逃げろ…。「津波てんでんこ」は、三陸の悲しくも重要な教訓である。
 「われわれは明治、昭和の大津波と同じことをしてしまった」と三年前を振り返ったのは、名古屋市で先月開かれたシンポジウムに招かれた岩手県釜石市の野田武則市長である。
 大きな揺れが収まって三十分ほど。いったん避難した後、家族の安否などを心配して自宅に戻った大勢の市民が津波にのみ込まれてしまった。「平時には冷酷に聞こえる『てんでんこ』だが、その教えは実に正しかった」
◆犠牲多かった市街地
 野田市長の率直な講演は示唆に富む。「犠牲者が多かったのは、沿岸部ではなく、海の存在を忘れがちな市街地だった」「防潮堤や防波堤は高くなるほど危ない。海が見えなくなるからだ」
守るよりも、まず、迷わず逃げよ。平成の三陸大津波の犠牲者が残した教訓も、結局は、明治、昭和と変わらぬ「てんでんこ」だったのではないか。国土強靱(きょうじん)化が海の脅威を視界から遮ることにつながるとすれば、このまま突き進んで大丈夫なのだろうか。
 よく知られるようになった岩手県宮古市重茂姉吉(おもえあねよし)地区の「高き住居は児孫の和楽/想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)/此処(ここ)より下に家を建てるな」と刻まれた古い石碑。
 その地では、三年前の大津波で住宅被害が一戸もなかった。死者の声を風化させなかったことが後の人々を守った好例である。
過去に繰り返された津波の被害や到達地点を伝える石碑や古文書は、紀伊半島沿岸部など南海トラフ巨大地震の大津波が予想される地域にも数多く残されている。
 同じように関東、東海地方でも、一七〇三年の元禄地震津波の犠牲者を供養する千葉県山武(さんむ)市の「百人塚」など、房総半島や伊豆半島にいくつもの津波碑が建てられている。
先人たちが石に刻んで後世に残そうとしたメッセージを再確認する試みが、東日本大震災を機に、各地で始まっている。
 その土地で何が起きたのか。将来、何が起きうるのか。逃げるべき場所はどこか。よそから移り住んだ人にも、一時的に立ち寄る人にも、先人の経験を共有できるようにする工夫を歓迎したい。
 こうした津波碑は漢文など古い文体で書かれている上、物理的に風化していたり、こけむしていたりで判読の難しいものが多い。
◆巨大津波に備えよう
 例えば南海トラフ地震の津波想定域にある三重県志摩市阿児(あご)町の「津波遺戒碑」。だれにでも分かるように、地元の自治会が内容説明の看板を碑の隣に設置した。碑には、一八五四年の安政東海地震の津波で百四十一戸が流失し、十一人が溺死した被害状況とともに「後世の人が地震に遭った際は、速やかに老人、子どもを連れて高台に逃げよ」と刻まれていた。
 人間は忘れるからこそ前進できるという考え方もあるが、東日本大震災で、また多くの犠牲者を出してしまった事実は重い。なぜ、命を救えなかったのか。悲しみを忘れることなく、死者の声にあらためて耳を傾けたい。
 
<大震災3年>上 遅れ目立つ復興 被災者救えぬ政治の怠慢
北海道新聞 2014年3月9日
 東日本大震災から3年がたつ。 
 死者は1万5千人を超え、なお2600人が行方不明だ。地震、津波に東京電力福島第1原発の事故が加わり、約27万人が避難生活を余儀なくされている。 
 一部の被災地では高台移転のための用地造成や復興公営住宅の建設が始まった。だが、仮設住宅にまだ約4万5千戸が入居している。大災害の傷痕は生々しい。 
 復興の歩みは遅く、被災者が安心できる日はまだ遠い。にもかかわらず国の政策に失速が見られるのはどうしたことか。 
 被災地を置き去りにして日本の再生はあり得ない。震災復興が国の最重要課題だと再認識し、全力で取り組まなくてはならない。 
■隠せなくなった矛盾 
 「時間の経過とともに、くさいものにフタをして自分の方向に進もうとしている。被災地にいるとそれが見えてしまう」。岩手県陸前高田市の戸羽太市長は仮設庁舎の小さな市長室で語った。 
 被災地の苦悩を尻目に、安倍晋三政権は独善的な政策を進める。大企業を優遇して復興法人税を前倒しで廃止し、公共事業重視が資材高騰と人手不足をもたらした。 
 集団的自衛権の行使容認に動く首相の姿は、被災地の人々から見れば「復興を担う子供たちの未来に、戦争が起きるかも知れない状況をつくっている」ように映る。 
 震災直後に比べ復興への熱意が冷めかけているのではないか。復興予算は相次ぐ流用で底を突きつつあり、財源探しが必要な状況に陥っている。国の政策と震災復興との矛盾は隠せなくなってきた。 
 福島県では民家の庭に放射能で汚染された土砂が散在する。中間貯蔵施設の建設場所が決まらないから行き場所がない。最終的にどう処分するか見通せないので中間貯蔵施設受け入れも決まらない。 
 一番大事な問題を後回しにしたまま、目先の事象に対応しようとするから根本的解決にならない。「くさいものにフタ」とはこうした現実逃避を指すのだろう。 
■肝いりの課題に軸足 
 震災復興が進まない背景を探ると、視野が狭く内向きな政治の姿が見えてくる。 
 安倍首相は復興を最優先課題に掲げて就任した。だが現実には経済政策で国民の支持を取り付けた上で、解釈改憲や積極的平和主義など自ら肝いりの政治課題に突き進もうとしている。 
 国論を二分する問題で国民的合意を追求しない。一部の勢力に頼れば政権を維持できると考えるからだ。そこには国全体の利益を図ろうとする視点が足りない。 
 その首相を、野党暮らしに懲りた自民、公明両与党が支える。震災時に政権の座にあった民主党も現政権批判に鋭さがない。 
 未曽有の大災害に既存の制度で対応し国民の信頼を損ねた官僚組織は、今ある権限にしがみつく。経済界は東京五輪をアベノミクスの「第4の矢」だと称賛し、ビジネスチャンス獲得に余念がない。 
 指導的立場にある人たちが自分の利益を優先する姿勢をとれば、社会への影響も避けられない。 
 被災地との「絆」を大切にする気持ちが薄れ、外国人をののしるヘイトスピーチや無差別に人を襲う通り魔事件など、ささくれ立った社会現象が増えている。 
 日本全体を重苦しい空気が覆っている。これは国民の多くが震災直後に目指した国の姿ではない。 
■分散型社会の実現を 
 教訓を見失ってはいけない。 
 大震災がえぐり出したのは、地方の犠牲の上に大都市が成り立つというこの国の構造的な問題だ。分散型社会の実現は震災後の日本にとって大きな課題と言える。 
 高い確率で首都直下地震が予想されている。だが国の対策はインフラ強化などハード面に偏っている。首都機能の移転が急務だが具体化しない。安全対策を怠った震災前の原発のありようと同じだ。 
 既存の権限を地方に渡さない中央省庁主導の行政と、官僚に依存した政治の打破が不可欠だ。大胆な発想で未来を切り開くことが肝心である。 
 震災前に逆戻りするかのような政治の現実があるために、いまだに多数の被災者が避難を強いられ、震災関連死も増えている状況が続いている。どう見ても異常だ。危機は去っていない。 
 「被災地に寄り添う」という言葉をいま一度思い起こす必要がある。自分だけ良ければいいという考えを抑え、人と人との結びつきを基盤とした社会をつくりたい。 
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 震災から11日で3年。わたしたちがなお直面する課題は何か。3回にわたり考える。