2014年2月8日土曜日

NHK経営委員の二人の言動は看過できない と

 籾井NHK会長の発言問題と前後して、昨年10月末に安倍首相の肝いりでNHK経営委員に就任した二人の言動が、物議を醸しています。
 7日の新潟日報は社説で取り上げました。
 
 その一人は長谷川三千子埼玉大名誉教授社説が述べているように昨年10月に、20年前に朝日新聞社で拳銃自殺した右翼の野村秋介氏を礼賛する追悼文を書きました。
 全文は末尾に示しましたが、そこには、
 人間自らの命をもつて神と対話することができる
 「すめらみこと いやさか」と彼野村)が三回唱えたとき、彼がそこに呼び出したのは、日本の神々の遠い子孫であられると同時に、自らも現御神(あきつみかみ)であられる天皇陛下であつた。
 そしてそのとき、わが国の今上陛下は(「人間宣言」が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現御神となられたのである。
などと書かれてあります。
 究極の右翼思想であり、一部の人たちからは熱烈に支持されるのでしょうが、大多数の人にはとても理解できず、共感も得られないのではないでしょうか。
 
 長谷川氏は、婚外子の相続差別規定を違憲とした最高裁決定を批判したり、女性の社会進出が出生率低下の原因であり、少子化対策には女性が家で子を産み育て男性が妻と子を養うのが良いとする文章も発表しています
 
 菅官房長官は長谷川氏のことを「我が国を代表する哲学者、評論家として活躍しており、我が国の文化にも精通している」と評価していますが、こういう人が果たして、NHKの報道のあり方について判断する委員として相応しいのでしょうか。
 
 もう一人は作家の百田尚樹氏です。彼はツィッターで派手に活動しているようで、社説で述べていることのほかにも、憲法9条問題では
すごくいいことを思いついた!もし他国が日本に攻めてきたら、条教の信者を前線に送り出す。そして他国の軍隊の前に立ち、「こっちには条があるぞ!立ち去れ!」と叫んでもらう。もし、条の威力が本物なら、そこで戦争は終わる。世界は奇跡を目の当たりにして、人類の歴史は変わる。
 
 また、籾井氏発言に関連しては
毎日新聞では、籾井氏の発言に対し、『経営委員側からは「外交問題に発展しかねない。選んだ側の責任も問われる」と失望の声がもれた』とあるが、少なくとも経営委員である私は何も言っていないぞ。誰が失望したんや!名前書けや
などのツィートで知られています。
 
 彼もかなりの右翼人士で、安倍首相と一回の対談ですっかり意気投合してNHKの経営委員に推薦されました。
 
 籾井NHK会長の発言が問題になったとき、自民党に近い某党の幹部が「安倍さんの周りにはもっとマシな人間はいないのか」と発言したことが報じられました。
 思想・信条はもとより個人の自由ですが、公的な委員として適格かどうかはまた別の問題です。
 それにしても、安倍首相が沈潜する右翼思想というものが、ここまで強度の非日常性?を持っている点は注目すべきです。
 そしてそういう人に舵取りを任せているというのが日本の現状なのです。
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社説NHK経営委員 看過できない言動が続く
新潟日報 2014年2月7日
 不偏不党、公正中立と唱えたところで、この人たちには建前や名目にすぎないのだろうか。物議を醸す言動が次々と明るみに出た。
 籾井勝人・NHK会長の従軍慰安婦をめぐる発言などが問題視されているさなか、今度はNHK経営委員2人の主張が波紋を広げている。
 経営委員の長谷川三千子・埼玉大名誉教授が、1993年に朝日新聞東京本社で拳銃自殺した右翼活動家の野村秋介氏を礼賛する追悼文を昨年10月に寄稿していたのだ。
 長谷川氏は、朝日新聞を「人間が自らの命をもつて神と対話することができるなどといふことを露ほども信じてゐない連中」と断じた。
 その上で「(その連中の)目の前で、野村秋介は神にその死をささげたのである」と書いている。経営委員に就任する前の寄稿とはいえ、内容には驚いてしまう。
 経営委員も思想信条の自由があり、放送法にも違反しないとして、政府は問題なしとする認識を示した。そうなのだろうか。
 公共放送の最高意思決定機関のメンバーが、同じ報道機関である新聞に対する右翼活動家のテロともいえる行為を賛美しているのだ。とても看過できるものではない。
 長谷川氏は追悼文について、個人の活動であり「経営委員の資格とは無関係」と釈明している。籾井会長が失言を「個人の見解」と強弁したのに倣ったかのようだ。
 メディアの首脳の主張や言動が与える影響は計り知れない。これがNHKの立場なのかと、視聴者に受け止められても仕方がない。
 さらに経営委員の一人で作家の百田尚樹氏が東京都知事選の立候補者、田母神俊雄氏の応援演説をし「南京大虐殺はなかった」と発言していたことが分かった。
 そればかりか百田氏は、都知事選の他の候補者を「人間のくずみたいなもの」と街頭でこきおろしたという。信じがたい発言だ。
 特定の候補を選挙期間中に経営委員が応援すること自体が、異例である。これも個人の思想信条の自由と、開き直っているようだ。一般的な常識や節度が感じられない。
 放送法の第31条は経営委員について「公共の福祉に関し公正な判断をすることができ、広い経験と知識を有する者のうちから…内閣総理大臣が任命する」と定めている。
 
 ベストセラー作家で映像などにも露出度が高い百田氏は、安倍晋三首相に近いとされ、保守派の論客である長谷川氏とともに昨年11月に経営委員に選ばれた。
 会長の任免権を持つ経営委員に「安倍人脈」が送り込まれ、会長や経営委員が騒ぎを巻き起こしている。公共放送の国際的な信頼やイメージが傷付きかねない事態だ
 安倍首相は参院予算委員会で、追悼文は「読んでいない」、応援演説は「聞いていない」、だから「答えようがない」とかわした。
 本音のところでは、官邸も頭を抱えているはずだ。首相は任命した責任を厳しく問われよう。人選について猛省すべきである。
 
長谷川三千子氏の追悼文全文
朝日新聞 2014年2月5日
 神にささげるお供へもののほとんどすべては、人間がもらつても嬉(うれ)しいものばかりである。上等の御神酒(おみき)は言ふに及ばず、海山の幸やお菓子の類……。或(あ)るとき神社の奉納のお祭りをごく真近(まぢか)で拝見する機会があつたとき、ちやうどお昼を食べそこねて空腹で、目の前を運ばれゆくお供物に思はず腹が鳴つて恥ずかしかつた記憶がある。あゝ、さぞや神さまも美味(おい)しく召上るだらうなあ、と思つたものである。
 しかし神にささげることはできても、人間に供することは決してできないものがある。自らの命である。よく陳腐な口説き文句に「君のためには命をささげる」などといふセリフがあるが、言ふ者も聞く者も、そんなセリフを文字通りに信じはしない。もしも本当にさう言つて、女の前で割腹自殺する男がゐたら、(よほどの毒婦でないかぎり)喜ぶ女はゐないであらう。下手をしたら、精神的打撃をかうむつたと言つて遺族に賠償を請求するかも知れない。人間は、人の死をささげられても、受け取ることができないのである。
 人間が自らの死をささげることができるのは、神に対してのみである。そして、もしもそれが本当に正しくささげられれば、それ以上の奉納はありえない。それは絶対の祭りとも言ふべきものである。
 野村秋介氏が二十年前、朝日新聞東京本社で自裁をとげたとき、彼は決して朝日新聞のために死んだりしたのではなかつた。彼らほど、人の死を受け取る資格に欠けた人々はゐない。人間が自らの命をもつて神と対話することができるなどといふことを露ほども信じてゐない連中の目の前で、野村秋介は神にその死をささげたのである。
 「すめらみこと いやさか」と彼が三回唱えたとき、彼がそこに呼び出したのは、日本の神々の遠い子孫であられると同時に、自らも現御神(あきつみかみ)であられる天皇陛下であつた。そしてそのとき、たとへその一瞬のことではあれ、わが国の今上陛下は(「人間宣言」が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現御神となられたのである。
 野村秋介氏の死を追悼することの意味はそこにある。と私は思ふ。そして、それ以外のところにはない、と思つてゐる。  (仮名遣いは原文のまま)