2014年2月27日木曜日

元韓国慰安婦証言の検証チームを設置の愚挙

 20日、衆院予算委に参考人として招致され石原信雄元官房副長官は、日本維新の会の山田宏議員への答弁で、従軍慰安婦制度への旧日本軍や官憲の関与を認めて謝罪した1993年の河野洋平官房長官談話について、談話の基になった元慰安婦とされる女性の証言の裏付け調査は行わなかったと明らかにしました。
 
 同日の予算委で、維新の山田議員が元慰安婦16人の証言検証するチーム設置を求めたのに対して、菅官房長官は証言内容を検証する政府チームの設置検討を表明しました。「非公開を前提に機密扱いの中で、どうできるか検討したい」ということです。
 
 石原氏は河野談話作成の際事務方トップとして調査を指揮し、韓国側の要請に応じる形で調査官を派遣し、韓国側が選んだ16人の「元慰安婦とされた人」からヒアリングを行いました。
 そして河野談話が出されたあとにも、韓国人女性の強制(連行)を立証する日本軍側のは出てこなかった」、「日本政府の指揮命令系統のもとに強制したことを認めたわけではない」と語っています。
 
 この石原氏の証言は、第一次安倍政権当時も安倍氏が大変に注目し、韓国人慰安婦の強制連行の証拠はないと力説していましたので、「韓国人慰安婦証言の再調査」は安倍氏の目論見どおりの成り行きなのかも知れません。
 しかしいまさら証言を再調査したところで一体何が明らかにされ、何が解決するというのでしょうか。
 
 先に橋下徹前大阪市長の韓国人慰安婦に関する発言が問題となりましたが、彼の主張の根拠もまたこの石原氏の証言でした。しかし外国特派員会で説明を要求されると、橋下氏はその発言に修正に次ぐ修正を加えて、ついには一体何を主張したかったのか分からなくなるまで後退させたのは、まだ記憶に新しいところです。
 
 日本の従軍慰安婦制度は、女性が意思に反して慰安所に連行・拘束され、逃亡が許されずに性奴隷として扱われたことに最大の問題がありました。従ってそれに従事した女性たちが完全な自由意志で参加して、拘束もされず、対等な対価を得ていたことでも証明しない限り、非難を免れることはできません。
 
 現に橋下氏に対しては、従軍慰安婦に関する発言に関して、しかるべき団体から理を尽くした公開質問状がいくつも出されていますが、彼は何一つ答えることが出来ていません
  2012年8月25日従軍慰安婦問題で橋下大阪市長に対して抗議文が出されました 
    2012年9月7日「アジア女性資料センターが橋下市長の慰安婦問題発言を批判
    2013年7月21日日曜日「橋下徹氏から回答がない 吉見教授の公開質問状に 
 
 従軍慰安婦の強制連行を指示した文書が見つからないからといっても、「当然だろう」とか「だからどうしたというのだ」という程度のことであって、何ほどの威力もありません。
 今回、仮に慰安婦の証言に虚偽があったことが明らかに出来たとしても同様です。
 日韓関係は更に悪化し、国内外の識者の失笑を買うというのが落ちです。
 
 自らを論壇の真性の保守主義者として、似非論壇保守主義者をなで斬りにしている文藝評論家山崎行太郎氏が、25日付のブログでこの問題に触れています。
 彼は、「河野談話や村山談話を廃棄して、安倍談話でも出したら、それで一件落着するのか。ますます国際社会に日本包囲網が出来上がり、日本の孤立化はすすむであろう。韓国や中国の思う壺である」、と語っています。
 
 安倍氏の心境はいまや、かつて国際連盟を脱退した当時の政権・軍部の思いにまで高まって?いるのでしょうか。
 
 以下に、山崎行太郎氏のブログを紹介します。
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文藝評論家山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』
 “文藝や哲学を知らずして 、政治や経済を語るなかれ !!!
2014年2月25日
 「朝鮮人慰安婦問題」に最終決着はありえない。最終決着があると幻想し、最終決着(「真の解決」)を求めることこそ、典型的なイデオロギー的思考である。
 イデオロギーとは、「真理は我にあり」と妄想する思考形態である。つまり、「朝鮮人慰安婦問題」には、かなりいい加減な、タテマエ論としての河野談話や村山談話のような「政治的解決法」しかない。哀しいことに、ネット右翼や保守政治家、エセ保守文化人・・・には、それがわからない。
 
 河野談話や村山談話を廃棄して、安倍談話でも出したら、それで一件落着するのか。ますます国際社会に日本包囲網が出来上がり、日本は孤立化がすすむであろう。韓国や中国の思う壺である。ホンネ丸出しのネット右翼と、そのネット右翼に支持される安倍政権は、飛んで火にいる夏の蟲か。
 
 誤解を怖れずに言えば、少なくとも政治的レベルでは、適当なところで妥協し、謝罪・補償した方がいい。かつては、「大日本帝国」を名乗った国である。つまり、「帝国の政治」とは、そういうものである。余裕を持って「悪」「犯罪」「過失」・・・を認め、謝罪・補償すること。それが、かつて、侵略や略奪、占領、支配、併合・・・を繰り返してきた「帝国の作法」であろう。
 たとえば、かつての「植民地支配」を認め、謝罪したところで、その国が滅びるわけではない。まして日本は敗戦国である。「敗戦国」の生き延びる作法を学ぶべきである。
 
 その時、政治的レベルと思想心情のレベルは分けて考えるべきだ。思想心情的な問題、あるいは、歴史研究的・学術的問題の余地は残しておくべきだが、それを、政治や外交の舞台に持ち込むべきではない。「朝鮮人慰安婦の強制連行はなかった」とか、「朝鮮人慰安婦は売春婦だった」・・・とか言って、「政治家たち」が騒ぐことこそ、墓穴を掘ることになる。たとえ、それが真実だったにせよ、そのまま国際社会や政治的空間において、その議論が通用するはずがない。
 
 「河野談話」の見直しが行われようとしているらしいが、「藪蛇」にしかならないだろう。「朝鮮人慰安婦の強制連行はあったか、なかったか」は、こだわりたい人はこだわればいいが、政治的には、たいした問題ではない。歴史的な現実問題として「朝鮮人慰安婦はいた」のである。「朝鮮人慰安婦が不当な身分差別を受け、軍の管理下で買春行為を強制されていた」ことは、一時的にせよ、例外的にせよ、歴史的事実だろう。「強制連行はなかった」という議論で、その事実を、歴史から隠蔽=抹殺することは出来ない。朝鮮人慰安婦問題を、政治問題として取り上げること自体が、朝鮮人慰安婦問題の「ホロコースト化」をもたらすだけだ。
 
有料ブログのため以下は非公表。