2013年9月2日月曜日

田中正造 没後100年 公害悲劇の連鎖

 4日の田中正造 没後100年目の命日を控え、東京新聞が「田中正造、百年の問い 足尾鉱毒と福島原発」と題する社説を掲げました。

 足尾銅山は明治期東アジア一の産出量を誇り、生産された主要輸出品となるために国策でその増産が進められました。
 日本の公害の原点といわれる足尾銅山鉱毒事件は、19世紀後半以降に栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた公害事件で、の採掘と精錬に伴う排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらしました。

 1890年、衆議院議員になった田中正造は、「明治憲法に保障された人権を愚直なまでに信奉し、11年に及ぶ議員活動の大半を鉱毒問題に費やし」(東京新聞 社説)ました。
 1901年に衆議院議員を辞職した後も鉱毒被害を訴える活動はやめず、1903年(明治36年)に栃木県谷中村が遊水池になる案が浮上すると、翌年から実質的に谷中村に住んで農民たちのために反対運動の先頭に立ちました。
 彼は1906年に谷中村が強制廃村となった後も、政府の圧力に抗して谷中村に住み続け、そこが終の棲家となりました。

 財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときの全財産は信玄袋1つ(無一文)でした。袋の中身は、書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、日記3冊、小石3つなどの他は帝国憲法だけでした。

 田中正造の生涯は、城山三郎の「辛酸」(文庫本あり)などに書かれています。

 足尾銅山の煙害により足尾町周辺の村はいくつも廃村になりました。この鉱毒を含む排水を農業用水として使った渡良瀬川流域を始め、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面に至るまで、立ち枯れ病などの稲作被害が発生しました。
 渡良瀬川流域の被害は大正時代になってからさらに拡大し、1971年には毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され出荷が停止されました。また2011年に発生した東日本大震災の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなどしてその影響は現在まで残っています。

 足尾鉱毒事件といいさらに多数の被害者を生み出した水俣病事件といい、いずれも国策の生産活動に由来して発生した大公害でした。
 それらの公害と2011年に起きた福島原発の大惨事は、本質において共通しているといわれ、谷中村の遺跡への来訪者が記すノートには、例えば次のように書かれているということです。

<5月19日。福島の原発や避難区域に指定されている集落が第二の谷中村にならないことを、ただただ願うばかりです>
<6月30日。日本近代の公害の原点、谷中の歴史を学び、水俣と谷中を結び、真の文明を未来へつないでいくことを約束します。水俣病事件の受難者に寄り添いながら>
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  (田中正造 関連記事)
      1月2日 「田中正造没後100年 足尾鉱毒事件と原発事故
      6月9日 「田中正造没後百年 足尾から水俣、反原発へ

 以下に東京新聞の社説を紹介します。
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【社説】 田中正造、百年の問い 足尾鉱毒と福島原発 
東京新聞 2013年9月2日
 田中正造。足尾鉱毒と生涯をかけて闘った。四日はその没後百年。正造翁が挑んだものは、水俣病や福島原発の姿を借りて、今もそこにあるようです。
 渡良瀬遊水地の三つの調整池のうちただ一つ、普段から水をたたえた谷中湖は、巨大なハートのかたちをしています。
 そのちょうど、くびれの部分が、旧栃木県谷中村の名残です。前世紀の初め、遊水地を造るために廃村にされながら、そのあたりは水没を免れました。
 ヨシ原と夏草に埋もれたような遺跡の奥に分け入ると、延命院というお寺の跡に、古びた赤い郵便受けが立っていて、その中に一冊のノートが置かれています。

◆「連絡ノート」は記す
 谷中村の遺跡を守る会の「連絡ノート」。ご自由にあなたの思いを書き込んでくださいと一九九四年に置かれて以来、十七冊目になりました。前夜の雨に湿ったノートをめくってみます。
 <5月19日。福島の原発や避難区域に指定されている集落が第二の谷中村にならないことを、ただただ願うばかりです>。東京都品川区の人。
 <6月30日。日本近代の公害の原点、谷中の歴史を学び、水俣と谷中を結び、真の文明を未来へつないでいくことを約束します。水俣病事件の受難者に寄り添いながら>。熊本県水俣市の人。
 どちらも丁寧な筆跡でした。
 原点の公害。それが足尾鉱毒事件です。
 現在の栃木県日光市にあった足尾銅山は明治期、東アジア一の産出量を誇っていた。当時の銅は主要輸出品。増産は国策だった。
 ところが、精錬時の排煙、精製時の鉱毒ガスが渡良瀬川上流に酸性雨を降らし、煙害が山を荒らした。そのため下流で洪水が頻発し、排水に含まれる酸性物質や重金属類などの鉱毒があふれ出て、汚染水が田畑を荒らし、人々の暮らしと命を蝕(むしば)んだ。
 栃木県選出の衆議院議員として、それに立ち向かったのが、田中正造でした。
 正造は明治憲法に保障された人権を愚直なまでに信奉し、十一年に及ぶ議員活動の大半を鉱毒問題に費やした。
 議員を辞職したあとも、困窮する住民の救済を訴え、一命を賭して明治天皇に直訴した。活動に私財を投じ、死後残した財産は、河原の石ころと聖書、憲法の小冊子。清貧の義民は、小学校の教科書にも紹介されて名高い。

◆重なるふるさと喪失
 時の政府はどうでしょう。
 煙や排水を止めさせて、根本解決を図ろうとはせずに、夏になると田んぼを真っ白に覆ったという鉱毒を巨大な溜池(ためいけ)を造ってその底に沈殿させ、封じ込めようと考えました。それが谷中湖です。
 足尾閉山から今年でちょうど四十年。湖底に積もった毒が、取り除かれたわけではありません。東日本大震災の影響で、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されたのも、偶然とは思えません。
 国策の犠牲、大企業や政府の不作為、ふるさとの喪失、そして汚染水…。渡良瀬、水俣、そして福島の風景は重なり合って、この国の実像を今に突きつけます。
 田中正造よ、よみがえれ、そう念じたくもなるでしょう。でも、私たちが求めるものは、それだけですか。

 去年正造の伝記小説「岸辺に生(お)う」を上梓(じょうし)した栃木県在住の作家水樹涼子さんは「万物の命を何よりも大切に思う人でした」と、その魅力を語ります。同感です。
 晩年の日記に残る鮮烈な一節。「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし
 それだけではありません。「少しだも/人のいのちに害ありて/すこしぐらいハ/よいと云(い)ふなよ」という狂歌などにもそれは明らかです。

◆私たち自身で出す答え
 お金より命が大事、戦いより平和が大事…。原点の公害を振り返り、今学び直すべきことは、何よりも命を大切にしたいと願う、人間の原点なのではないか。
 「みんな正造の病気に同情するだけで、正造の問題に同情しているのではない。おれは、うれしくも何ともない」
 
 長年封印されてきたという正造最期の言葉です。
 
 意外でも何でもありません。そもそも誰の問題か。百年の問いに答えを出すべきは、私たち自身なのだということです。