2013年7月19日金曜日

最先端の憲法がありながら・・・

 憲法は弱者や抑圧されている人たちのためにこそ必要なものといわれます。そういう人たちを守り支える拠り所だからです。
 その点で自民党の改憲草案における人権条項の改悪は、その支えとなる柱を政府の意のままにいくらでも細くできるようにしようとするものに他なりません。

 いまなお世界の最先端を行く日本国憲法は、13条で「生命、自由及び幸福追求に対する権利」を、25「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」をうたっていますが、残念ながら生活保護の申請を窓口で拒否する「水際作戦」が、多くの自治体で平然と取られているという現状があります(厚労省が自ら実践指導した結果です)
 これは大変な憲法違反なのですが、実際には「憲法を政治に活かす」運動の重要な一環として具体的に闘うしかありません。しかしそれが出来るというのも、そうした憲法の規定があるからなのです。

 東京新聞が「憲法を歩く」と題して、憲法を政治に活かす闘いの現場をレポートしています。
 その(上)は生活保護申請の受取拒否との闘いの様子を、(中)は沖縄の豊かな森を切り開いて米軍のヘリパッドを建設するのを阻止する住民たちの座り込みなどを、国が2010年に「通行妨害」だとして訴えたことに対して、抗議行動は憲法21条の「表現の自由」に該当するとして、抗議行動の正当性を勝ち取る闘いの様子を伝えています。
 (下)は19日以降に記事が出ると思いますので追って掲載します。
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憲法を歩く(上) 生活保護 狭める国
東京新聞 2013年7月17日  
「飢え死にしてしまうかと思った…」
 七月中旬、さいたま市の雑居ビルにある生活困窮者を支援するNPO法人「ほっとプラス」の事務所。二日間、何も食べていなかったというTシャツ姿の男性(46)が代表理事の藤田孝典さん(30)が出したレトルトのおかゆをかき込んでいた。
 男性は三十代の終わりまでアルバイトで生計を立てていたが、適応障害となったことをきっかけに職を失い、生活保護を受け始めた。袋小路の生活の中で、ギャンブル依存に陥り、所持金も使い果たす。ネットでNPOを知り、駆け込んだ。
 「自立のためには、まず心の病やギャンブル依存の治療から始めましょう」。藤田さんは、障害者手帳の申請を男性に勧めた。
 この数年、NPOには、失業し借家を追い出された三十代、四十代からの相談が増えている。公園で寝泊まりしていても身なりはきちんとしているといい、新たな形の貧困は目に見えにくい。
 二〇〇六年、藤田さんは市内の公園で三十歳前後の男性に出会う。見た目は「こざっぱりしたイケメン」だったが、靴が汚く、苦境が察せられた。男性は初めのうち、支援の申し出を拒んでいたが、説得に応じ、生活保護を受けてアパートの入居にもこぎ着けた。
 しかし、四年後、男性は部屋で首をつって自殺する。直前「ケースワーカーから『仕事は見つからないのか』と繰り返し聞かれるのがつらい」と漏らしていた。アパートの保証人となっていた藤田さんが遺品の整理に訪れると、机の上には数十枚の求人票があった。三十四歳だった。
 同じさいたま市で昨年二月、六十代の夫婦と三十代の息子の三人が凍死しているのが見つかった。料金が支払えずにアパートの電気やガスを止められていた。父子が一時勤務していた建材会社の関係者によると、多額の借金を抱え、十年ほど前に秋田県から転居してきたという。
 アパート周辺で話を聞くと、近所付き合いはほとんどなかった。昔から住む男性(65)は「以前だったら考えられないような話」と嘆く。一帯は一九六〇年代ごろまで、ほとんどが農家。農作業で困れば、助け合うのが当たり前だったが、遺産相続で土地が細切れにされて一部がアパートや住宅となった。
 雇用が厳しさを増し、地域の絆も薄れ、貧困と死の距離が縮まる。そんな中で、政府は生活保護費の抑制策を次々と打ち出す。八月から生活保護費は切り下げ。窓口で申請を拒む「水際作戦」の強化につながるとも批判される生活保護法改正案は、参院審議の空転で廃案となったものの、再提出される見通しだ。
 藤田さんたちは役所の窓口で、生活保護申請の受理を渋る担当者に「憲法を読んでくれ」と訴える。憲法一三条は「生命、自由及び幸福追求に対する権利」を、憲法二五条は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を、それぞれ保障する。やりとりの中で、受給が認められることもある。「当たり前のようだけど、どんな人にも人間らしく生きる権利がある。行き着く先は憲法なんです」 (大平樹)

憲法を歩く(中) 反対住民 国が訴え
東京新聞 2013年7月18日
 ブロッコリーにも例えられる、こんもりとした亜熱帯の森を金属製の工事フェンスが取り囲む。沖縄県東村高江周辺の米軍ヘリコプター離着陸帯(ヘリパッド)建設現場。近くで座り込みなどの抗議活動をしていた伊佐真次(まさつぐ)さん(51)は二〇一〇年、通行妨害の禁止を求める訴えを国に起こされた。
 「座り込んで腕を組むというのは、私たちはここを守りますという意思表示。それすら許されないのか」
 沖縄でトートーメーと呼ばれる伝統位牌(いはい)を作る木工職人。父の仕事を引き継いだ。「工場の騒音で迷惑をかける」と二十年ほど前に沖縄市から高江に引っ越した。「もともと環境保護派でも何でもない。単に生活していただけ」。しかし一九九九年、ヘリパッド建設計画を知り「人殺しの施設をこんな豊かな森に造るなんて」と反発した。
 着工前に開かれた説明会。どういう機種が来るのかなどの質問に防衛省沖縄防衛局の担当者は「米軍の運用の問題」と繰り返すだけだった。「あるおじいさんは(環境アセスメントで)虫や鳥についてはよく調べるのに、人間の聞きたいことに答えないなんて、俺たちは虫けら以下なのかと怒っていた」
 裁判で伊佐さん側は、抗議行動は憲法二一条の「表現の自由」に該当すると主張したが、一審、控訴審ともに認められなかった。那覇市の裁判所まで高江から片道二時間半。仕事はその分遅れた。座り込みをする住民は減った。「写真やビデオを撮られて裁判にかけられるわけだから。権力を持っているものが権力を使って弱い者いじめをしている」
 参院選公示翌日の五日、最高裁に上告した。弁護団によると、公共工事などに反対する住民を国が訴えた例はないという。「判決が確定すれば、言うことを聞かない人を国がどんどん訴える怖い世の中になる。沖縄だけの問題じゃない」
 伊佐さんらがフェンス入り口近くに設置した監視用テントに元衆院議員の古堅実吉(ふるげんさねよし)さん(84)=那覇市=は、毎週バナナを持って激励に訪れる。本土復帰前の沖縄で、立法院議員として「憲法記念日」の制定に尽力した。
 沖縄戦で学徒動員され、本島南部の海岸で、捕虜となった。半月かけて米ハワイの収容所まで船で輸送される間、生きた心地はしなかった。敵の捕虜になったら耳や鼻を切り落とされると、すり込まれていた。
 終戦後も「命だけは絶対奪われたくない」という恐怖から、かつての軍国少年は「次は、逮捕されても絶対兵役は拒否する」と思い詰めていた。米占領下の沖縄に戻った後、本土で憲法が制定されたことを人づてに聞いた。「戦争をしなくても良い国になった。徴兵検査ももうないのか」と、ほっとした。
 「そもそも米軍基地が九条違反」と考えている古堅さんにとって、今の高江は、平和的生存権や請願権、表現の自由など憲法が二重三重に損なわれている現場だ。それでも悲観はしていない。「憲法を足場にすれば、時間はかかっても、主権者である国民には、あきらめも敗北もないはずだ」 (中山高志)
 ヘリパッド建設計画 日米両政府による「沖縄特別行動委員会」(SACO)の1996年の合意で、沖縄県北部の米軍北部訓練場7500ヘクタールのうち4000ヘクタールを返還する条件として、返還区域のヘリパッド7カ所を、残る区域に移設することが付記された。
 その後、両政府は移設先を東村高江区周辺の6カ所と決め、2007年に着工、今年3月に1カ所が完成した。これまでの国の支出は約30億円に上る。