2013年1月2日水曜日

田中正造没後100年 足尾鉱毒事件と原発事故


 自民党は、衆院選では3年間を掛けて原発の将来像に結論を出すと言っていましたが、選挙で大勝すると早速 原発推進者である甘利明氏、茂木敏充氏、石原伸晃氏をかなめの経済再生相、経産相、環境相に配し、国民の8割が望んでいた原発ゼロへの志向などは全く無視して、早くも原発の新設を認める可能性にまで言及しました。 

田中正造は、足尾銅山の鉱毒問題を追及し、衆議院議員を辞してからは鉱毒被害の中心地  谷中村に住み、田を荒らされた農民たちのために闘いました。
    今年は田中正造が没してから100年になりますが、東京新聞は元日の「筆洗」のコーナーで、「正造が生きていたら、『加害者が何を言う』と一喝するだろう」と書きました。
アメリカからの働きかけがあったとはいえ、この地震の多発国に50数基という原発を建設したのは50年以上も続いた自民党政治であり、その結果 原子炉の溶融・爆発という最早回復不能の一大悲劇を生んだことに対する反省が、何も見られないことを言っているわけです。

戦後の公害裁判の嚆矢となった新潟水俣病第一次訴訟を主導して勝利を導いた坂東克彦弁護士も、田中正造の闘いが日本の公害事件(裁判)の原点であると高く評価し、平田慶吉の「鉱害賠償責任論」の考え方を裁判に援用したということです。1
坂東弁護士は、熊本の水俣病事件においても、「見舞金契約」で沈黙させられていた患者たちを損害賠償訴訟に立ち上がらせ2、その裁判にも参加して、チッソ㈱の西田工場長から「原因はチッソ㈱排水中の有機水銀」という決定的な証言を得たり、同社の細川医師の臨床尋問で、「細川ノート」を公表してチッソ㈱がそのことを早くから認識していたことを明らかにするなど、 多大な貢献をしました。
1 著書「新潟水俣病の三十年」他いくつかの報文で
2   のちに「見舞金契約」は患者を騙して結んだもので公序良俗に反無効であるとする判決が出ました

 足尾鉱毒事件は18858月に初めて新聞で報道され、1899年には鉱毒による死者数は1,064人と公表されましたが、時代的な制約もあって事業差し止めなどはされずに、実に、足尾銅山は銅が掘り尽くされる1973年まで操業が続けられ、精錬所は更に1980年代まで操業が続けられました。 

 足尾銅山の鉱毒事件が公表されてから100年以上が経過している今日、世界が見守るなか 日本の原発はどのような帰趨を辿ろうとするのでしょうか。
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筆洗 (201311)
東京新聞201311 

 「予は下野(しもつけ)の百姓なり」。田中正造の自伝はこの言葉から始まる。「小中の土百姓」「溜(下肥)かつぎ営業」とも自称した。国会議員になっても、辞めた後も生涯一農民という認識は変わらなかった(小松裕著『真の文明は人を殺さず』)。 

足尾銅山の鉱毒問題を追及、明治天皇に直訴を試みた正造は、還暦を過ぎても遊水池化に抵抗していた谷中村の農民の粗末な家に泊まり込んだ。常に民衆に軸足を置く政治家だった。 

銅山から渡良瀬川に流れた鉱毒は、洪水のたびに下流に被害が広がった。天災と人災が複合した「合成加害」と喝破した正造は、洪水被害の三分の二は「私欲と奸悪」が原因の人災と言い切った。 

今年は正造の没後百年になる。五年ぶりに再登板した安倍政権は自らの原発政策への反省や検証もないまま、民主党政権が決めた二〇三〇年代に原発ゼロという方針を覆し、原発の新増設さえ視野に入れる。正造が生きていたら、「加害者が何を言う」と一喝するだろう。 

銅の採掘のために伐採され、製錬所が出す亜硫酸ガスや山火事ではげ山になった足尾の山林は、ボランティアが木を植えて、荒涼とした山肌に緑が戻ってきた。 

自然との共存を主張した正造に今、学ぶべきことは多い。新年に当たり、もう一度かみしめたい言葉がある。 

<真の文明は山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし>