2015年10月26日月曜日

ブックフェア中止 / 放送大学の問題文削除 問題は一連のもの

 LITERAが2日続きで、ジュンク堂(大規模書店)渋谷店の「自由と民主主義のための必読書50」というフェアがネット右翼たちの執拗な攻撃によって中断させられた問題と、放送大学の単位認定試験出題問題 その掲載時に大学側が勝手に削除した問題を取り上げました。
 
 書店のフェアの件は、政権批判に反対する(ネット)右翼たちが極めて執拗に本部などに嫌がらせ・抗議のメールや電話を繰り返したために、結局それに屈した本部の指示でフェアは中止となりました。
 これは「書店の表現の自由」が、利益を最優先する本部の意思で踏みにじられたもので、最後に残っていた書店の社会的公益性が資本の論理に押し潰されたと言えるものでした。
 
 放送大学の試験問題の件は、ある教授が日本美術史において、政治的弾圧により表現の自由が抑圧されことに関する問題を出したことに対して、学生の一人が直ちに大学本部に直接抗議のメールを出したことに端を発したもので、これも何故か1人のクレーマーに屈して、大学は担当教授の意向を無視して出題問題掲載時にその問題を削除しました。たった1人の学生のクレームによって、大学自身が「学問の自由」を踏みにじったもので、「大学の自殺行為」と言うべきものでした。
 
 この件についてLITERAは、「現在の大学は、ネトウヨ的なクレーマーに非常に弱い。ネトウヨ的な学生は、実際には全体の数パーセントに過ぎないが、そのクレームが大学の右派教員に反体制的な教員を弾圧する根拠を与える。そういう効果を知っているクレーマーは教員対してではなく、大学当局にクレームをつける(要旨)と述べています。
 
 いずれにしてもこれで味をしめた彼らは今後ますます図に乗ってくることでしょう。
 安倍政権が養成したとされるネット右翼は実は極く少数に過ぎないと言われていますが、その活動は過激で日本の各界を息苦しいものに変えようとしています。
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安倍政権批判本が書棚から消える?ジュンク堂ブックフェアのネトウヨ攻撃・撤去事件で奪われた書店の良心と自由
LITERA 2015年10月24日
 恐ろしい事態が起きてしまった。ネトウヨたちの攻撃により、MARUZEN&ジュンク堂渋谷店の、「自由と民主主義のための必読書50」というフェアが撤去されてしまったのだ。
 ジュンク堂渋谷店の「自由と民主主義フェア」を告知した「ジュンク堂渋谷店非公式」というツイッターアカウントが、フェアを応援するユーザーに、〈夏の参院選まではうちも闘うと決めましたので!〉などと返信したことで、ネトウヨたちからの批判を受け、アカウント削除に追い込まれたことは、先日本サイトでもお伝えした。
 (中 略)
 朝日新聞の報道によると、ジュンク堂の広報担当者は「フェアのタイトルに対して、陳列されている本が偏っているという批判を受けて、店側が自主的に棚を一時撤去した」と説明し、渋谷店の店長も「素晴らしいという声も、偏りを指摘する声もあった。いずれも真摯に受け止めている。批判があった以上、内容を改めて検討する必要があると考えた」と述べたという。
 しかし、実はこの撤去、本部からの指示だったといわれている。
「先日のアカウントの削除も本部の判断だったそうですが、削除後も抗議が止まず、本部がフェアそのものも中止しろと通告してきたらしいです」(出版関係者)
 ネット上での批判だけでなく、ネトウヨから嫌がらせの電話がひっきりなしにかかってくる状態で、渋谷店だけでなくジュンク堂本部にも抗議が殺到したという。その結果、面倒を嫌がった本部がフェアの撤去を決めたのだというのだ。
 
 それにしても、書店がフェアを止めるとは一体どういうことなのか。広報担当者も渋谷店店長も「偏り」うんぬんと言っているが、いつから書店は中立が義務になったのかフェアというのはそもそも、あるテーマの本を集中的に紹介したり、特色を打ち出すもの。書店がどんな本を選びどのように陳列しようが、それは書店の表現の自由で、偏向といわれるような類のことではない。ましてや、今回のように書店全体で見れば安倍政権を擁護するようなちがう意見の本だって置いてあるなかで、フェアといういちコーナーにどういう本を置こうが、偏向などという批判はまったくあたらない。
 (中 略)
 ネトウヨも中立厨もまったくわかっていないようなので言っておくが、差別を助長するヘイト本と政権批判の本は同列に語られるようなものではない。たとえば、書泉グランデで問題になったのがヘイト本でなく政権擁護本だったのであれば、どちらの言論も守られるべきだと主張する必要がある。しかし、ヘイト本はあからさまな差別ではないか。「差別するな」というのはイデオロギーや政治的主張ではない。民主主義や人権を守るための最低限のルールだ。
 (中 略)
 
 これまで書店は、出版物を思想や政治性といったもので排除せず流通させることを原則としてきた。
 だが、今回のことでこの大原則が崩れてしまうかもしれない。最後に残っていた書店の社会的公益性が、資本の論理に押し流されてしまう可能性があるのだ。
 町の書店が軒並み姿を消し、なんとか生き残っているのは大手チェーンの書店ばかり。その大手チェーンも近年大企業の資本が入っている。たとえば、リブロは日販の100%子会社、TSUTAYAは日販と資本提携、ジュンク堂も大日本印刷の傘下だ。表現や文化の多様性を下支えするはずの書店も、資本の波に飲み込まれてしまっているのが現状である。
 資本の論理の前に売れる本だけが売れ、それ以外の大多数の本は見向きもされないという現象は加速し、各書店の独自性はもちろん、出版の多様性すらも失われる一方だ。
 そんななか、かろうじて、言論の多様性を担保してきたのは、書店員の良心だった。仕入れで、棚づくりで、フェアで、ひとりひとりの書店員が、個人の良心にのっとって、自分のできる範囲で、かろうじて言論の自由と書物の持つ多様性、教養主義を担保してきたのだ。
 だが、ひとたびこうしたトラブルが起きると、大資本はそうした書店員の自由を許さなくなる。書店の良心や公益性よりも利益を優先する大資本は、その営利追求を邪魔するものとしてトラブルの種を徹底的に避けようとし始める
 おそらく、これから先、大手書店では政治的なことをツイートするのはもちろん、ちょっとでも政治色のあるフェアをやること自体がタブー化してしまうだろう。
 
 いや、今回の件で味をしめたネトウヨたちが、調子に乗って、安倍政権を批判する本を置いてあるだけで、抗議や嫌がらせを行い、自由に本を選び置くことすらできなくなる可能性さえある。
 この「自由と民主主義フェア」撤去問題は、決してジュンク堂だけの小さな問題ではないのだ。その意味で今回のジュンク堂本部の撤去という対応は、非常に罪が重い。
(酒井まど)
 
 
放送大学の問題文削除だけじゃない、安保法制批判の大学教員に次々クレームが…日本の大学に蔓延するイヤ〜な空気
LITERA 2015年10月25日
 (前 略)
 今年7月、放送大学の客員教授である佐藤康宏・東京大学教授が今年7月26日に行われた日本美術史の単位認定試験で出題した問題が、学内サイトに問題文を掲載する際に削除されたという一件だが、単なる大学内のイザコザに留まらない深い問題がそこには横たわっているのだ。
 
 まず、削除された問題文をみてみよう。
「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。平和と自国民を守るのが目的というが、ほとんどの戦争はそういう口実で起きる。1931年の満州事変に始まる戦争もそうだった。それ以前から政府が言論や報道に対する統制を強めていた事実も想起して、昨今の風潮には警戒しなければならない。表現の自由を抑圧し情報をコントロールすることは、国民から批判する力を奪う有効な手段だった」
 
 これに続いて戦前、戦中に弾圧された画家について書かれ、内容と一致しない画家の名前を回答するという問題であった。
 画家に対する政治的弾圧を現在の政治状況に引き寄せたものだが、放送大学は試験を受けた670名のうちの1名から「このような事をするのは問題」という抗議のメールが試験当日のうちに届き、これにより大学側が問題文の削除に動いた
 (中 略)
 放送大学は放送法に則ってこれらの対応を行ったというが、なるほど放送法第4条では「公安及び善良な風俗を害しないこと」「政治的に公平であること」と「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」が求められている。
 しかし、放送大学の単位認定試験がはたして放送法の対象になるのか。しかも、日本国憲法23条では「学問の自由」が保障されている。「学問の自由」を、放送法を盾にして侵してしまうのは、大学としては自殺行為。それこそ問題文にある「言論や報道に対する統制を強め」「表現の自由を抑圧し情報をコントロールする」を地で行く対応ではないか。
 だが、こうした「学問の自由の侵害」が行われているのは放送大学だけではない。実は、今、日本の大学は全体的に、教員の政治的発言に対する圧力が高まっているのだという。
 
「直接、大学当局が安保法制に反対する教員を抑えこむために『教員の政治的活動、政治的発言を禁じる』というようなハードな弾圧を行う、というのは現状ではありません。しかし、ソフトな政治的弾圧は蔓延しています
 こう話すのは都内のある私立大学の教員だ。
「現在の大学は、ネトウヨ的なクレーマーに非常に弱い。ネトウヨ的な学生は、実際には全体の数パーセントです。しかしこれらのクレームが、大学の右派教員に反体制的な教員を弾圧する根拠を与えるのです。教員の授業での発言が偏向している、という抗議が授業後に大学に来るということもあります。これは教員本人に直接言うのではなく、大学当局にクレームをつけるのです」
「学問の自由」の精神に照らせば、疑問は教員に直接ぶつけるべきであろうが、当局にクレームがいってしまうことで、教員の萎縮効果はより大きなものとなる。
 
 また、大学によっては、右派教員による政治的ストーキングまといつき・ストーカー行為などもあるという。
 (中 略)
 嫌がらせが、大学の意向かどうかは分からない。だが以下のような事情があるのでは、と、この大学教員は言う。
「学問と政治の関係を、例えば教授会などで本気で討議することは難しい。ですから、陰にこもった嫌がらせをするのです」
 
 しかし、なぜクレーマーに萎縮し、ストーカー的な振る舞いがまかりとおっているか。別の都内大学教員は語る。
支配的な体制に順応してしまうことを良しとする、また政治的に突出することを許さない『空気』が大学に蔓延していることがその原因です。積極的に支配的な『空気』になじもうとする人はそう多くありませんが、最近の大学の教員は良くも悪くも優等生が多いので、この『空気』に抗する勇気のある人は少ない」
 
「空気」の問題で言えば、さらに寒々しい話がある。
「安保法制は、まだ大学で話しづらいということはありません。大変なのは慰安婦問題です。この問題は本当に大学当局も嫌がるし、教員もかかわり合いを嫌がります
 実際、本日行われる「安全保障関連法に反対する学者の会」と学生団体SEALDsが共催するシンポジウムは、当初、立教大学に会場使用を申請したものの、立教大はこれを「純粋な学術内容ではない」などとし許可しなかった。シンポジウムのテーマは立憲主義や民主主義について大学人としての責任を問い直すというもので、数々の学者たちが出席するが、これでも「学術的ではない」と言うわけだ。このシンポジウムは、結局、法政大学で行われることとなった。
 当然、これが直接的な歴史問題となると、より厳しくなる。
 (中 略)
 今回の放送大学の一件で明らかになったのは、クレームにびくびくし、「空気」に振り回され、結果安倍政権におもねってしまうような「大学の溶解」状況である。
 日本の大学は今、緩やかな自殺の最中にあるのかもしれない。 (高幡南平)