2012年5月31日木曜日

自民党の憲法改正草案は非常に反動的

 自民党の日本国憲法改正草案(以下では「改憲案」と略称します)が発表されましたので、現行の日本国憲法と比較できるように並べて掲示しました。どちらも長文なため別枠の記事にして、「自民党 日本国憲法改正草案」と「日本国憲法」のタイトルを表示しておきました。それをクリックすればそれぞれの文書が開きます。
自民党の改憲案は非常に反動的な内容です。まだ国会に上程されたわけではありませんが、先週から具体的に動き出した憲法審査会の中で、彼らが憲法改正の機運が盛り上がることを期待しているのは事実でしょう。
そこでインターネットなどで指摘されている自民党の改憲案の問題点について、ご紹介します。
(記事中に引用した憲法の条文は、多くが原文の一部を省略したものになっていますので、詳細は原文を参照して確認してください。) 

平板な前文
 
現行憲法の前文が理想主義にあふれた格調高い文章であるのに比べると、改憲案の前文は何とも平板な文章です。
ここでは、日本国を「長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」と規定し、「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」と自助・互助の精神を強調し、「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」と結んでいます。 
 
天皇は元首に、国旗と国歌の尊重義務を明記
 
 「第1章 天皇」では、改憲案は、1条で天皇を「元首」にし、3条で国旗(日章旗)・国歌(君が代)を制定し、その(国旗と国歌)尊重義務を課しています。これはまさに橋下大阪市長の主張と一致していますが、果たして個人の思想信条の自由と両立するものなのでしょうか。そして、そもそもこんな風に天下り的に憲法にうたうべき事柄なのでしょうか。
現行の憲法では、国民の義務の記述に関しては極めて抑制的であって、労働・教育・納税の三つをうたっているのみです。そしてそれら三大義務の正当性は万人に無条件に認められているものです。
それに対して改憲案では、国旗と国歌の尊重義務の他にも、「家族は助け合わなくてはならない」(24条)とか、緊急事態時には「国その他公の機関の指示に従わなければならない」(99条3)とか、「憲法を尊重しなければならない」(102条)とかと、やたらに国民に対して義務を課しています。

しかしながらそれは「憲法は権力を制限し、国民の権利・自由を擁護することを目的とする」という「立憲主義」にそぐわないものです。実際に、自民党の起草者たちには「立憲主義」についての認識がなかったようなので、今後議論を呼ぶものと思われます。(末尾を参照ください)
改憲案は、天皇の行為について、現行の憲法4条の「憲法が定める国事に関する行為のみを行う」から「のみ」を削除し、代わりに「式典への出席その他の公的な行為を行う」と「その他」を入れることで、天皇の「公務」を拡大し、これまで議論のあった国会での天皇の「お言葉」などの問題を解消しています。
関連して改憲案の102条 2では、現行の憲法が「天皇又は摂政及び国務大臣、・・・その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う」となっているものから、「天皇又は摂政」を削除しています。 
 
国防軍を作り 機密法を制定し 軍事裁判所を設置
 
 改憲案は、9条では、「戦争放棄」を維持しながらも2項で自衛権を明文化しました。そして9条の二で「国防軍」の保持を、同3項では海外への派兵を、同4項では軍の統制と機密を、同5項では軍事審判所(裁判所)の設立をうたいました。
また9条の三では「国民と協力して」、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならないとしました。なぜここに「国民と協力して」が入るのか、如何にも唐突で違和感がありますが、これはいずれ国民に「動員」(徴兵制)を掛けることを意識して挿入された文言だといわれています。まことに驚くべき周到さです。
 かくして現行憲法の「二度と軍備は持たない、二度と戦争はしない」という決意は跡形もなく拭い去られました。それにしても579文字を費やして書かれた改憲案の9条全体は、第1項の「戦争放棄」の堅持と整合性があるものなのでしょうか。
国防軍という名称に何らかの抑制的な属性を期待するというのは無意味です。古来全ての戦争は自衛/国防を口実として進められてきたという事実がある(「平和運動原論」 福山秀夫 学習の友社1997)からです。 
 
国民の権利・表現の自由が制限され、財産も・・・
 
「第3章 国民の権利及び義務」でも問題は大ありです。まず12条では、現行の憲法が、国民に保障する自由と権利は「濫用しないで、公共の福祉のために利用する責任を負う」となっているのを、改憲案では「公益及び公の秩序に反してはならない」に変えました。
同様に13条では 現行の憲法では生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、「公共の福祉に反しない限り」最大限に尊重されるとなっているのを、改憲案では「公益及び公の秩序に反しない限り」云々に変更しました。
29条の財産権も、現行の憲法では「公共の福祉」に適合するように法律で定める、となっているのを、改憲案では「公益及び公の秩序」に適合するように、と変えました。
そして改憲案では21条 「集会・結社・言論・出版その他一切の表現の自由」で、新たに第2項を起こし、「前項の規定にかかわらず、『公益及び公の秩序』を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」として、その自由を法令で制限できるようにしました。 
こうした「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」への言い変えは、非常に重大な変更であり決して看過することはできません。個人の自由と権利を最大限に認めようとすれば、当然他人の自由や権利との干渉が生じます。その時にそれを調整するための判断基準が「公共の福祉」の概念であって、その正当性は万人が認めるところです。(法理学で「衡平の原理」と呼ばれます)。

これを「公益及び公の秩序」に変えてしまうと、最早「公共の福祉」の持つ抽象性・深淵性とはまったく無関係になって、国民の自由と権利は、法律や政令によって簡単に制限できることになります。29条で言えば、「公益及び公の秩序」によって財産が没収されることもあり得るということになります。 (>_<)
これまで個人の自由と権利が国や地方公共団体等によって侵害されているという理由で、原発訴訟などの住民訴訟が提起されてきましたが、もしもこの改憲案が成立すればそうした訴訟の根拠そのものが失われることになります。 
 
個人の尊厳もなくなります
 
なお13条では、現行の憲法では「全て国民は、個人として尊重される」となっているのを、改憲案では「人として尊重される」に変えました。「個人として」であれば、個性を持った全人格が尊重されることになりますが、「人として」であれば、せいぜい「牛馬並みにではなく・・・」という程度になって、「個人の尊厳」という言葉の持つ輝きは失われます。
改憲案の15条 3では国の公職選挙で、また94条 2では地方自治体の選挙で、それぞれ「日本国籍を有する」者による選挙に変えられるので、地方政治のレベルでも外国人の参政権が制限されることになります。

20条では、現行の憲法は、宗教団体が「政治上の権力を行使すること」を禁止していますが、改憲案はそれを削除しています。20条 3では、現行の憲法は、国及び地方公共団体等の宗教的活動を禁止していますが、改憲案では「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」としてその制限を緩和しています。 
 
家族の助け合いを義務化?
 
改憲案では24条で「家族は、互いに助け合わなければならない」という条項をつけ加えました。家族が助け合うことに異存のある人はいませんが、それを憲法の条文に盛り込むということはまた別の問題です。いわゆる「思いつき的な追加」に当たるものでないとすれば、その意味は何なのでしょうか。
家族が分解(崩壊)して助け合えなくなる社会的要因(貧困・差別など)を取り除くための努力を国家に課すというのであれば、それは非常に画期的なことですが。^^ 
 
注意すべき事項は山盛り
 
改憲案では生存権に関する25条に、(環境保全の責務),三(在外国民の保護)、(犯罪被害者等への配慮)をつけ加えましたが、三の「在外国民の保護」は、これまで外務省の事案として扱われてきたので、それをわざわざ憲法にうたう必要があるかは疑問とされています。軍隊の出動を意識しているのでしょうか。
28条では、いわゆる労働権(団結権、団体交渉権、争議権)を保障していますが、改憲案では、第2項を新たに起こして、「公務員については、全部又は一部を制限することができる」としています。
29条 で財産権が「公益及び公の秩序」に適合 云々と書き変えることの危険性は既に述べましたが、改憲案では、その他に「知的財産権」が新たにつけ加えられました。これはいわゆる「思いつき的な追加」と呼ばれるもので、他の同位の事項との整合性(それらを差し置いて特にうたう必要があるのか)が問われます。
36条(拷問等の禁止)の改憲案では、現行の憲法が「絶対にこれを禁止する」となっているのを、単に「禁止する」にしました。もはや強調することは不要ということなのでしょうか。
 
国会は現状肯定的に、そして退役軍人が総理になれるように・・・
 
「第4章 国会」の47条で、改憲案は「この場合においては、各選挙区は、人口を基本とし、行政区画、地勢等を総合的に勘案して定めなければならない」を追加しました。これにはいわゆる「1票の格差」論を緩和する目的があるようです。
56条では、現行の憲法では「総議員の3分の1以上の出席がなければ、『議事を開き』、議決することができない」となっているのを、改憲案では「総議員の3分の1以上の出席がなければ、議決することができない」とし、3分の1以下でも議事を開けるようにしました。議員の怠慢を容認し現状を肯定する態度です。
「第5章 内閣」の66条第2項では、現行の憲法が、「内閣総理大臣及び全ての国務大臣は、文民でなければならない」となっているのを、改憲案は「現役の軍人であってはならない」に変えました。いずれ軍部が台頭してくることを予想してのことであれば、かつて日本が辿った道についての反省はどうなったのでしょうか。 
 
非常時大権が創設されます
 
改憲案では「第9章 緊急事態」を追加し、緊急事態の際には内閣は法律と同等の政令を制定でき(99条)て、国民は国その他公の機関の指示に従わなければならない(99条 3)、といわゆる「非常大権」の付与をうたっています。
これが先般の大震災の教訓であるとすれば的外れなことで、先の大震災で明らかになったのは日本国民の我慢強さと規律正しさであって、それは世界中から称賛されました。それに対して政府の対応の不十分さ・まずさは際立っていて、彼らが如何に不作為であったか、如何に情報を隠蔽したか、そして今なお不作為であり続け隠蔽し続けているか、こそが大問題であるのです 
 
憲法改正は議員の過半数の賛成で発議
 
「第10章 改正」の100条では、現行の憲法が「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」で国会が発議できるとしているのを、改憲案では、「総議員の過半数の賛成」で発議できるとしました。
もともと議会が民意を正確に反映していない(小選挙区制では4割の得票率で7割の議席が得られるなど)状況の中で、ぎりぎり過半数の賛成でも発議できるようにするのは、憲法の重要性に照らして危険なことであって、現行の憲法が、軽々しく改廃ができないように「3分の2以上の賛成」を要件としている方に、理があります。
現行の憲法では「第10章 最高法規」 の97条で、あらためて「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利」であると宣言していますが、改憲案ではそれを完全に削除しました。 
 
立憲主義にもとるもの
 
改憲案では最後の102条で、「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」と堂々とうたっていますが、これは、前述したとおり「立憲主義」にそぐわないものです。
その点は、先の99条3(緊急事態)における「何人も・・・国その他公の機関の指示に従わなければならない」という記述等々も同様で、自民党の改憲案の起草者はそのことを理解していなかったのではないかという指摘が出ました。
それに対して起草委員会事務局長の I 氏は528日のツイートで、「立憲主義は大学(*東大)で習わなかったし、教科書にも載っていなかった」と反論?していますが、ともかくもそれによって起草者(たち)に「立憲主義」についての認識がなかったことが明らかになりました。それでは生徒会の規則を決めるような感覚で改憲の作業を進めたのでしょうか。そうだとすればそれ自体が大きな問題です。
 
※この記事は下記のインターネット記事を参考にさせていただきました。
 
「憲法施行65周年と自民党『憲法改正草案』」(水島朝穂氏)
       「公民の先生が呆れかえる自民党改憲案の凄まじさ」(村中和之氏)